45 ずれた心
夫は、わたしのようすがおかしいことに気づいてはいた。
が、自分の状態をどう説明していいのかわからなかったわたしは、ハルキのことで気が滅入っているのだ、とだけいってお茶を濁した。
「放っておけ。俺たちは親としてやるべきことはやってきた、あとはハルキの問題だ」
厳しい表情でつぶやく夫に、そうだね、と笑顔でうなずきながらも、ざわざわと心は波立つ。そんな単純な問題じゃない、わたしはとても『やるべきことはやった』なんて言い切れない。
けれどその気持ちを、どう言葉にしていいかわからない。
出逢ってから十数年の間、わたしたちはいつも互いの胸の内を率直に語り合い、心を寄り添わせながら歩いてきたつもりだった。
しかしここ数年はハルキのことをきっかけに、ふたりの間に微妙なずれを感じるようになっていた。
いや、最初からずれた部分はあったはずなのだ。
おそらくわたしは無意識のうちに、心を夫寄りに微調整してきた。怖かったのだ、この人にまで失望され、見捨てられることが。
ありのままの自分を見つめようとすることで、わたしはようやくそれに気がついた。
ふたりの考え方の違いを最も痛感させられたのは、「過去」の捉え方だった。
夫は、過ぎたことを振り返っても意味がない、という。
そして、わたしが少しでも後ろ向きな言葉を口にすると、必ずこう言って叱った。
「そこから何が生まれるの? それより、これからどうしたらいいかを考えるべきじゃないか?」
実際に彼はそうやって、普通なら耐えられないような幾多の困難な状況を乗り越えてきたし、わたしもそんな夫の生き方に歩調を合わせることで、自己憐憫に沈むことなく前に進むことができた。
しかし一方で、ハルキとの間に立ちはだかる目には見えない分厚い壁は自分の過去と密接に関係している、そう感じるようにもなっていた。
幼いころからしんしんと積み重ねられてきた心の痛みや悲しみ。
すでに記憶の表舞台から葬り去られていたそれらは、決してなくなったわけでなく、閉じ込められた胸の奥深くで、静かに腐って別のなにかに変質している、そんな気がしてならなかった。
何かのきっかけで噴き出せば、なす術もなく暴走してしまう負のエネルギー。きちんと過去の想いと向き合わなければ、それを断ち切ることはできない。
けれど、夫はこの考えを理解してはくれなかった。
わたしが背負っていたものは、すでにクリアになっているはずだと、そう言い張った。
確かに、十数年前に初めてふたりが出逢ったとき、すでに人生をすっかりこじらせていたわたしに、彼は持てる限りのエネルギーを注ぎ込んでくれた。わたしの心にぴったりと寄り添いながら、これ以上ないというほど濃やかな愛情を、ぽっかりと空いた空洞に注いでくれたのだ。
わたしは彼に支えられ、あきらめかけていた未来に踏み出すことができた。
しかし、それですべてが終わったわけではない。
おそらく、彼がどれだけ力を尽くしてくれても、どうにもできないものがあったのだ。
わたしの胸の奥の、一番深いところに、ひっそりと刺さり続けている棘。
何千回、いや何万回「冬子は充分やってるよ、もっと自信を持ちなさい」そう繰り返してもらっても、どうしても溶かすことのできない、冷たく凍った塊。
ハルキを愛そうとすればするほど、それがより明確に感じられるようになっていく。
しかしその感覚は夫にはどうしても理解できないものらしく、それよりもわたしが内面に入り込みすぎておかしくなるのを警戒し、「そこまで考える必要があるの?」とさりげなく釘を刺してきた。
一番わかってほしいことが、いくら言葉を尽くしても伝わらない歯がゆさ。
わたしは改めて、夫との間にどうにも埋めがたい深い溝があるのを思い知らされた。
しかし、それでも今度ばかりはあきらめることができなかった。
心の奥深くでもつれた糸をほどかなければ、いずれわたしたちは壊れてしまう、そんな焦りにも似た気持ちに駆り立てられるように、わたしは再びもがき始めたのだった。




