25 風邪
「あー面倒くさい、行きたくない」
中学生になってから、毎朝のようにハルキの口から出るぼやき。
しかしそれでも気の合う友達はできたらしく、最初の1か月ほどは休まずに登校していた。
そんな日常がほころび始めたのは、GWが明けて数日後のことだった。
その朝も、ハルキの部屋では大音量のアラームが鳴り続けていた。
起こしに行くと、ハルキはベッドに横になったまま寝不足の腫れぼったい目でチラリとこちらを見て、いつもと違う鼻声で「すっげーだるい……」と呟いた。
いくらか咳をしていたが、額に手をあててみると熱はない。せいぜい軽い風邪だろう。
なのに、ひしひしと『休みたいオーラ』が伝わってくる。
どうする?
このくらいなら無理にでも行かせるべきだと、以前のわたしなら思ったはずだ。子供の頃、どれだけ熱があっても「ひどくなったら帰って来い」と母がわたしを送り出したように。
そのやり方に限界を感じたからこそ決めたのだ、押し付けるような子育ては一切やめようと。
それなのに、いざこんな局面を目の当たりにすると、どうしていいかわからなくなる。「この程度で休ませるなんて甘すぎる」「どうせゲームで夜更かししてたくせに」「ただサボりたいだけじゃないか」そんな想いが次々に湧いてきて、心を激しくかき乱す。
すべてを受け入れるといって、どこまで許していいのか、ただの甘やかしではないのか?
わたしの優柔不断さを見透かしているかのように、ハルキはこちらをチラチラと意識しながらも決して起き上がろうとはしない。
「……学校、どうする?」
内心の葛藤を抑えてようやく発した問いかけに、ハルキはさらりと答えた。
「休もうかな」
わたしはこっそりため息をつき、学校に欠席の連絡を入れた。
本当にこれでよかったのだろうかと、悶々とした気持ちを抱えたままで。
その翌朝のことだった。
目が覚めると、全身に鉛をぎっしり詰めこまれたように体が重く感じられた。
なんとか起き上がろうとしたが、思うように動けない。
あきらめて、隣で寝ている夫に「ごめん、調子悪いみたい」と声をかけた。
「大丈夫? どんな感じ?」
心配そうな夫の声。
「だるくて……風邪ひいたのかも」
喉は痛いが、熱があるわけではなさそうだ。
昨日のハルキを思い出し、胸に苦いものがこみ上げる。
しかし、そんな思いを知ってか知らずか、夫はこともなげにこう言った。
「そう。ハルキのがうつったのかな……。いいよ、そのまま寝てて。なんだったら、仕事も休んだら? 今日は1日、ゆっくりしなさいな」
当たり前のように差し出された温もりに、ふいに泣きそうになった。
夫にはわかっているのだ。わたしがハルキにだけでなく、自分にも「休んでいいよ」と言えない人間だということが。
その優しさをしみじみと噛み締めるうち、いつの間にかまた眠っていたらしい。食器が触れ合うかすかな音で目が覚めた。
リビングから聞こえる朝の情報番組と、夫が動き回る気配。
枕元の時計を見ると、もうすぐ6時になろうとしている。
いつもだったら大急ぎで弁当作って朝ごはん用意して、ゴミ出して洗濯して風呂洗ってと、分刻みで走り回っているころだ。
そして、今日もちゃんと学校に行ってくれるだろうかとハラハラドキドキしながら何度もハルキを起こしに行って、やっと送り出したと思ったら今度は自分の出勤時間で――。
いつもいつも時間に追われ、見えない不安に追い立てられる日々。
――そっか、わたし、疲れてるんだ……。
そう思ったら、突然涙がボロボロあふれてきた。
ちょうど着替えに戻ってきた夫はそれを見てよほど具合が悪いと思ったらしく、「こっちは心配しなくていいよ」と言って出社の用意をすませると、ハルキを起こしにいってくれた。
『お母さん調子悪いんだからしっかりしろよ』遠くからハルキを諭す声が聞こえて、思わず泣き笑いになる。
夫はそのままどこかに出ていったと思ったら、コンビニで薬やヨーグルトを買い込んで帰ってきた。
そして出勤前にもう一度「大丈夫?」とわたしの顔を覗き込み、そっと頭を撫でてくれた。
力強い手から伝わるぬくもりに、体中の力が抜けていく。
ああ、なんて心地よいんだろう。
子供の頃、こんな風に優しくされたことなどなかった。
風邪をひくと、母はいつも顔を歪めて忌々し気にこう言い放った。
「まだ熱下がんねえのか、しょうがねえな!」
その荒い言葉に何度も傷つき、心の中で固く誓ったのだ。
この人に弱みなど絶対見せてなるものか、と。
わたしの中に、今もそのときの母がいる。
胸の奥のしこりとなって、いつもわたしを責め立てる。
いつか、それが溶けていくときが来るのだろうか。
心からハルキに優しくしてやれるようになるだろうか。
ふわふわの布団にくるまれてまだ見ぬその日を夢に見ながら、わたしは再びとろとろと深い眠りに落ちていった。




