19 本当の気持ち
一般的に、「あなた」から始まる言葉はどうしても、相手への非難や評価になりやすいという。
以前のわたしがまさにそうで、ハルキと顔を合わせるたびに「あなたはどうして〇〇なの!」と責める言葉ばかりを並べ立て、親子関係を悪化させ続けていた。
それとは逆に、「わたし」を主語にして自分の「気持ち」を表現すると、コミュニケーションがスムーズにいきやすくなるらしい。
いわゆる「わたし(I)メッセージ」である。
そのことを知った当時の日記を読み返すと、Iメッセージを意識しているせいでひどくぎこちない会話になっており、我ながら苦笑してしまう。
しかもそれが、嫌になるくらい上手くいかなかった。
なぜなら、表面的にわたしメッセージを使ったとしても、本物の気持ちでなければ相手の心には届かないからだ。
自分の心をちゃんと見つめて言葉にしない限り、わたしメッセージは効果を発揮しない。
なのにわたしは、本心に気づかないまま上面だけのIメッセージを発していたのだ。
その頃自覚できていた感情のほとんどは「怒り」。
実はその奥に、拒絶感や不安や心配といった様々な感情が潜んでいたのに。
だがハルキと何度となく衝突を繰り返すうち、心の奥深くに隠れた気持ちに気づかされることが増えていった。
そしてわずかずつではあるが、確実にハルキとの関係は変化していったのだ。
その日、塾から帰ってきたハルキは夜食のチャーハンを食べていた。
このところ、使った食器がそのままになっていることが多い。
それがずっと気になっていたわたしは、「Iメッセージ」を使って自分の気持ちを口にしてみた。
「テーブルの上に皿やごみが置きっぱなしだと、何をするにもまず片付けなくちゃならなくて、本当に嫌なのよね」
ハルキはうんうんと軽くうなずきながら聞いている。
よし、いい反応だ。
が、しばらくしてリビングに戻ってみると、いまだに空になったお皿をテーブルに置きっぱなしのまま、マンガを読み耽っている。
「使った食器、持ってきてくれないかな!」
思わず声を荒げると、ハルキは眉をしかめて嫌味ったらしく「はいはい、わかりましたよ」と言いながら皿を持ってきた。
気持ちを落ち着かせながら、改めて問いかけた。
「ハルキは、お皿を片づけるのが面倒なのね」
するとハルキが口を尖らせた。
「俺的にはあとで持って行くつもりだったんだけど、今って言うからさ」
「そっか、ハルキはあとで持っていくつもりだったんだ。でもお母さんは、そのまま忘れてしまうんじゃないかと思ったのよ」
「俺は忘れはしないから」
「忘れているわけではないんだね。でもさ、最近片付けていなこと多いじゃない」
「そう? 俺としては、結構片付けているつもりなんだけどな」
「お母さんも回数を覚えているわけじゃないけど、片付けてないこともあるじゃない」
「それは時間がない時だよ」
「時間がないって、流しには30秒で持っていけるでしょ」
「その時間もないの!」
ハルキが声を荒げる。
でも、こっちだって引き下がらない。
ゲームや漫画にめいっぱい時間を費やして、皿もゴミもそのままに慌ただしく出かけていく姿を何度も目にしている。
「自分の好きなことをやっているのに時間がないって言うのが、納得できないのよ」
「何かやっていると、時計を見ていなくてギリギリになったりしちゃうんだよ」
「じゃあハルキは、やることを忘れたわけではないけれど、何かやっていると時間を忘れてしまうのね」
「そういうこと」
ようやくわかってもらえたと安心したのか、ハルキの表情がふっと緩んだ。
そして笑いながら言ったのだ。
「じゃ、これ片付けておけ!」
しかし、その何気ない、たぶんハルキにしたらほんの軽い冗談のつもりのひとことが、わたしの地雷を思い切り踏んだ。
洗いものをしているうちに、腹の底から沸々と怒りがこみ上げてくる。
その黒い塊はどんどん大きく膨れ上がり、最後には抑えきれなくなった。
ガチャン、ガチャン!
わたしは怒りに震えながら、大きな音を立て食器を積み重ねていった。
「……なんでそうやって急に切れるの」
ハルキが顔を歪めてわたしを見ている。
切れる?
そうか、私は今切れているんだ。
「あんなの、ただの冗談に決まってるじゃん」
そう吐き捨てるハルキの声は、どこか悲しげだ。
「お母さんは、冗談でもそんな風に言ってほしくない」
わたしは自分の心を見つめながら、できるだけ正直に言葉を紡ごうとした。
「……俺は、母さんの気持ちなんてわからないし、もう話は終わったと思ってるのにそうやって切れられると、なんだか馬鹿らしくなってくるよ」
泣きそうな顔で訴えるハルキ。
ハルキが幼いころから、こんなことを何度も繰り返してきた。
抑えようとするほどにコントロールできなくなる怒りの衝動。
おもちゃを壊したり、豆腐を床に叩きつけたこともあった。
そのあとに訪れる深い自己嫌悪。
しかし考えてみれば、思い切り怒りをぶつけられるハルキのほうが、もっと深く傷ついてきたはずなのだ。
そのことに思いあたって、胸がズキンと痛んだ。
「ハルキはいつも、お母さんが急に切れるのが、すごく嫌だったんだね……」
「そうだよ」
いつの間にか、さっきまでの怒りはすっかり鳴りを潜めていた。
かわりに、しみじみとしたハルキへの想いが胸のずっと深いところから浮かび上がってくる。
「お母さんは、ハルキと心が通じるようになりたいのよ。いい親子関係を作りたいし、ハルキのことをちゃんと理解したいと思ってる。冗談でもあんな風に言われると、その気持ちを無神経に踏みにじられたような気がして、悲しくて腹が立ってくるのよ」
そう口にした瞬間、心が弾けてスーッと軽くなる気がした。
ああ、これか――。
わたしは、ハルキとちゃんと分かり合いたいのだ。
だからこそ、うまくわかりあえないことが苦しくて、悲しくて、腹が立って仕方ないのだ。
じんわりと温かいものが、腹の底から湧き上がってくる。
わたしはハルキのことを、ちゃんと大切に思っている。
しかし、その気持ちに向き合わないままどんな言葉をぶつけたところで、届くわけがなかったのだ――。




