17 それぞれの戦い
わたしたちは会話の多い夫婦だ。
職場のことや子供のこと、日常のふとした出来事やドラマやニュースにいたるまで、その日感じたあれこれを思いつくまま語り合うのが習慣になっている。
ハルキとの関係に悩んでいたこの時期もそれは同じで、思い詰め暴走しがちなわたしに夫はいつでもうまくブレーキをかけてくれた。
その晩もわたしは普段通り、ハルキとの小競り合いやそこで感じたやり切れない想いを、ため息交じりに夫に話した。
しかしその日の夫の態度は、いつもと違ってなぜかとても冷ややかだった。
いつになく張り詰めた空気に違和感を抱きながらもひと通りの話を終えると、夫は青ざめた固い表情のままこう言った。
「ついこの間は、『あれだけ勉強しなくてこの成績をとれるなんて、ハルキは優秀だ』って褒めていたのに、何かあるとすぐにぶれる。冬子はずっと、そんなことを繰り返してるよね?」
冷たく鋭いナイフでいきなり切りつけられたような気がした。
自分でもわかっている。
確かに今のわたしは、頭ではハルキを受け入れようともがきながらも感情がついていかず、ちょっとした出来事で心が揺れ動いてしまう。
でもそれは、今に始まったことではない。
どうして今日に限って、こんなきつい態度をとるのだろう?
戸惑いと不安に揺れながら、必死に言葉を探す。
「自分がぶれてしまうことはわかっているけれど――そのたびに考えて、何かに気がついて、少しずつ進んでいこうと思ってるよ? わたしは、そういう風にしかできない」
だが夫のピリピリとした態度は変わらず、さらにわたしを追い詰めようとする。
なぜ?
いつも冷静にわたしの話を受け止めてくれていたではないか。
わけのわからないもどかしさに、声が荒だっていく。
それからもいつになく攻撃的なやり取りがしばらく続いたあと、夫は吐き捨てるように言った。
「なんでそんなに冬子が抵抗するのかわからない」
一瞬で心が凍りついた。
こんなに言葉を尽くしても、彼にはわたしがただ意地を張っているようにしか思えないのか――。
そこにあると信じていた地面が、急に覚束ないもののように感じられた。
謝ってしまえばいい。
わたしが謝れば、すぐにこの場はおさまり表面上は穏やかな関係が戻ってくる。
ふとそんな思いが胸を掠める。
しかし、わたしはすぐにそれを打ち消した。
納得せずに抑え込んだモヤモヤは決して消えることがなく、気づかないうちにわたし達の関係を曇らせていくに違いなかった。
積み重ねられていくすれ違いと、偽りの笑顔。
そんな未来を想像するだけで、暗澹たる気持ちになっていく。
――嫌だ、そんなのは絶対嫌だ。
気がつくと、ほろほろと涙がこぼれ落ちていた。
夫はふうっと息を吐き、そんなわたしをなだめるかのように静かに語りかけてきた。
「……俺がなんで『ぶれるな』って言ったかわかる?
冬子がこういう状態になると、ハルキのところに行って怒鳴りつけたい衝動に駆られるんだ。前はそうだったじゃない。俺達はそれを繰り返してきちゃったんでしょう?」
ああ、そうだ。
以前は、わたしがハルキのことで思い悩んで不安定になるたびに、見るに見かねた夫がきつく叱っていたっけ。
けれど、結局それでは何も解決しなかった。
それどころか、ハルキはますます頑なになっていったのだ。
そうか、それでこの人は、ハルキと距離を置くようになったのか――。
でも。
「わたしは、ハルキをどうにかして欲しいなんて思ってないよ。これはハルキの問題じゃなくて、わたしの心の問題だから」
わたしの言葉に、夫が眉をひそめる。
「じゃあ、それを聞いて俺はどうしたらいいの?」
「聞いて欲しかっただけだよ。それで気持ちがおさまったら、あとはまた時間をかけて自分で整理していくから」
「それならいいよ、わかった」
夫はきっぱりそう言うと、この話はもう終わりというように目を伏せた。
しかし彼のまとう空気は冷たく張り詰めたままで、ふたりの気持ちが別のところにあるのがひしひしと感じられてならない。
このままにしてはいけないと、わたしの中の何かが告げていた。
「本当にいいと思ってるわけじゃないよね? 納得してないでしょ?」
夫が、え? という顔でこちらを見た。
「すごく、冷たい顔になってるもん。そんなんだったらわたし、これから何も話せなくなちゃうよ……」
畳みかけるようなわたしの言葉を、夫はただ黙って聞いていた。
そして、長い長い沈黙の後、ポツリと言った。
「ごめん。」
固く張りつめていた彼の表情が、かすかに緩んだ気がした。
「正直今、余裕がない」
意外な言葉にハッとした。
「……仕事のこと?」
「うん。会社では、いつもこういう顔してる。俺、今すごく鬱っぽいかもしれない。会社でも、調子悪いんですかってよく聞かれるんだ」
ショックだった。
普段から、何かとトラブルの多い職場の様子を聞いていた。
そう、聞いていたはずなのに。
いつも通りに振舞う夫の姿に安心し、さほど深刻にはとらえていなかったのだ。
わかっていたはずなのに。
平気な顔を見せていても、実はとても繊細で周りが見えすぎてしまう人だと。
そして、どんな状況になっても逃げることなどしない人だと。
「……ごめん、全然気がつかなくて」
心のどこかで甘えていた自分がひどく情けなくて、涙がこみ上げてくる。
「ううん、こっちこそごめん」
夫もまた泣きそうに微笑みながら、嗚咽するわたしの背中をそっと撫で続けてくれた。
その手の温もりに、新たな力が湧いてくる。
この人もまた、ギリギリのところで戦っているのだ。
ならばわたしもわたしの戦いに、自分自身で決着をつけなくてはならない。




