赤い風船/お題「瞳に夢を映して」
鏡に映った彼女の右目に、赤い風船が飛んでいた。
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棺桶のように狭く暗く暖かい寝室の天井には、顔一個分の鏡が備え付けられていた。
少女は毎夜、鏡の内に顔が収まるようにして横になる。今日もそう。
背筋へと鋭利な冷気を刺し込むフローリングが、じわりじわりと温まり。木々がふやかされてしまうほどの熱を彼女から奪い取ったころ、夢は始まる。
鏡に映った彼女の右目。とても小器用な映写機が、その黒目にだけ、奇妙な映像を映し出す。
それは夜を飛ぶ、赤い風船の旅物語。最初はポプラに引っ掛かっていた風船は、黄色い風にすくわれて空へ浮き、緑の雀につつかれて雲間をさまよい、どこへ行くのかあてもないのか、ただただどこかをぷかぷかと。たったそれだけの物語。
少女は風船の夢を楽しみにしていた。14歳と14ヶ月、不眠症歴14ヶ月の夢見がちすぎる少女は、クセで引いていた左手首の赤いラインが14本になった時から眠れない。
その右目は生来にして光を入れない役立たず。そんな右目が今では彼女唯一の娯楽となっていた。
風船は今日も行く。同道するものはなく、夜毎伸びる旅路は常に困難を伴っていた。もちろん彼女自身に責はなく、風のまにまに流れいくだけ。されど艱難辛苦はとめどなく降り注ぐ。
川に落ちて岩に打たれ、猫に叩かれ雹に吹かれて。それでも彼女は割れなかった。守るべき誇りなどない。彼女はただの真っ赤な風船、可愛い絵柄も何もない。
むしろその赤さは血のようで、星空よりも悪天候こそ似つかわしい。
右目の夢は少女の夢であり、その全権は少女が握っていた。そう、岩も雹もそして猫も、少女が夢へとぶつけた癇癪。
割れてしまえ、割れてしまえ、割れないな、どこまで割れずに耐えるのだろう?
今日は雷をぶつけてみることにした。まっすぐと美しく、綺麗に縦に、撃ち抜いてあげようか。だけど雷って、意外と蛇行運転するのよね。
リアリティを求めた少女の意向によって、雷は風船の右斜め上から入って左下へと抜けることとなった。閃光と共に轟音がわななき、衝撃で風船は月下を堕ちる。
それでも割れてはいなかった。黒く焦げた跡さえなく、相も変わらず血じみて赤い。割れた雲の隙間から刺し込む月光の中、無様な風船は道路に着く間際まで落ちていく。そしてそこから、また不器用にも空へと昇る。
少女はため息をつく。これでもダメか。なんだかんだとタフなのね。
少女は知っていた。彼女が何をしようとも、風船は割れることなどないのだと。
何故ならこれは夢。彼女の支配する夢の世界。風船もまた、彼女の夢。
雷をしのいだ風船は、暗雲立ち込める夜を行く。不気味で暗く、見通しは悪い。
しかしそれこそが彼女に相応しい場所。暗がりを好む風船は、わずかな月光さえも嫌がって、隙間ない雲を探してまわる。
そして見つけた黒いわたがしの下、風船はそっと息をつく。わたがしは壮大に広く、その端へとたどりつく頃には、日が昇ろうとしていた。
少女の棺桶部屋も白み始める。
おしまいね。少女はぽつり呟いて。右のまぶたを降ろして、上げる。風船の夢がどこかに消えて、役立たずの右目に戻る。
明日はどうやっていじめてやろうかしら。今の少女にはそれ以外に為すことがなく、しかしそれだけは確固としてあった。
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赤い風船は明日も飛ぶ。彼女の右目の夢に飛ぶ。