熱砂の大地の、赤い夜
乾いた砂漠を、ひっそりと進む一行があった。
隊商というには程遠いそれは、まだ年若い少年と、長身の青年の二人。そして、それぞれの乗ったラクダのみ。積み荷も少なく、行商人風ではない。この不毛な大地では明らかに異質の存在だ。
二人とも、分厚く巻いたターバンとそこから垂れる日除け布で、顔はほとんど陰に隠れている。これも日除け用であるマント、それに簡易の旅装も同じもの。だが、細身でも筋肉質な青年とは違い、少年のほうの布地は、かなり余っている。細いというより、華奢と言っていいほどの体格であるらしい。
そんな二人がまだ日も昇りきっていない早朝から進んでいるのは、熱風と照りつける日差しで足止めを食らう前に、少しでも距離を稼ぐため。だが、既にひと月もこんな生活を続けている二人にとって、早朝でも既に噴き出す汗と喉の渇きで、疲労も溜まる一方である。
何しろ、目の前にあるのは砂、砂、一面の砂の海。
うねりの起伏の仕方が多少違うだけで、あとは熱風に吹かれてさらさらと形を変える、まるでそれすらも蜃気楼のような光景が続くのみ。ともすれば、正しく進んでいるのかどうかもわからなくなり、延々砂の迷宮をさまよっているような気にさえなるほど、旅は果てしなく長く、厳しかった。
それゆえに、並んで進むラクダの上、少年は時折ふらりと傾ぐような仕草を見せる。青年が慌てて何か言葉をかけると、姿勢を正して再び進む、という状態だ。
それでもやっとのことでオアシスの村に辿り着いたのは、昼を迎える直前。宿を取ったのは青年のほうで、少年は黙って付いていくだけ。またふらつきそうになったところへ差し出された青年の手を、少年は頑固に振り払った。部屋に入り、扉を閉めると、少年は堪えきれぬように寝台に倒れこんだ。そんな状態であるのに、差し出してやった水は飲まず、自分でのろのろと起き上がって新たに水差しから注ぎなおす始末。これにはさすがの青年も、もう我慢の限界だったらしい。少し乱暴に自身のターバンを取り、あらわになった、澄んだ青い瞳で少年をにらみつけたのだ。
「……なぜ、そんなに頑ななんです、あなたは」
声音は固く、冷たく響く。けれど、苛立ちと怒りの奥に、秘められた感情がこもっていた。青年の青い瞳と、砂漠の民にはふさわしくない白い肌、そして短い金の髪を力なく見上げ、少年はゆっくりと立ち上がる。再度ふらつきかけたのを、駆け寄った青年が今度こそしっかりと支えた。少年は、尚もその手をふりはらおうとする。
ついに腹を立てたらしい青年が強く力を込めて拒絶すると、暴れた少年のターバンがずれ落ちた。マントを取った華奢な肩、そして背中にまでも流れていくのは、青年と同じ金の長い髪。彼の、少し褪せたような乾いた金色とは異なる、金貨のような輝かしい流れだった。波打つ豊かな長髪よりも、決定的に青年と違うのはその顔立ちだ。皮膚の色が褐色なだけではなく、逆に青年を睨む大きな蜜色の瞳も、小生意気そうな鼻も、やわらかそうな唇も、全て――完全に、『少年』ではなく『少女』のものだった。
「髪も……あの時、切ってしまえばよかった。国も滅び、民も殺されたのに、血筋の証だなどというこの髪が、今更何の意味を持つというのだ」
悔しげに唇を噛む少女を支えたまま、青年は痛ましげに目を逸らした。髪の輝きも、強い意思の閃く瞳の美しさも、見ていれば自分の胸までもずきずきとまた苛まれる気がしたから。
全ては、遠い緑の大地に置いてきた過去と、辛く苦しいその後の道程の記憶。けれど、国と民を捨てても彼女を助けた、自分の選択の結果で胸は痛めても、それを後悔したことは一度もなかった。
「ルーファス」
そっと呼ばれ、彼は目線を戻す。蜜色の瞳が、あの夜のように自分を見つめている。
やり場のない怒りと嘆きと、悲しみと焦燥――とても十七の少女に抱え込めるものではない感情のすべてが、どこにもぶつけられない彼女の心が、無言であっても伝わってくる。もう一度名を呼ばれ、目線だけで答えると、少女――滅びた国の王女は、苦しげに微笑んだ。
「今更どうなることでもない。悔やんでも何も取り返せないし、時を戻すこともできない。だから、わたしは前へ進む。どれだけ辛くても……やりきれなくても」
「姫……ヤーミアーナ」
どちらの呼び方も、失ってしまったものを思い出させるのだろう。軽く睨まれて、ルーファスはわざと明るく呼び直した。
「ミア」
ヤーミアーナ王女――今はただこの長く果てしのない旅の相棒となった少女、ミアは頷く。
「わたしは、頑ななのかもしれない。未だ、昔の自分を捨てきれない。本来ならば気安く接することさえ許されない身分のあなたに、こんな風にわがままを通してしまうのだからな」
「ミア、そういう意味じゃ……」
わかっている、と少女は微笑んだ。今度は、ただ静かな、悲しい微笑みだった。
身分で言うならば、本当ならば王の娘の彼女のほうが高く、自分にそんな気遣いをする必要もないはずだった。が、生まれてきた後、決して王は彼女を腕に抱こうとはしなかったという。なぜなら、自身とも民の皆とも違う濃い色の肌が、残酷な事実の証明であったから――。
「父は異なろうと、あなたはわたしの義兄上だ。たとえ遠縁からの養子であっても、実質王家の血筋の男子なのだから。つまりは、あのまま帝国が攻めてこなければ、次の王になったはずの方……でも、悲劇は起こり、国は奪われ、滅んだ。七つの大陸の端――幻とも夢物語とも言われたこの熱砂の大地に逃げられたのも、あなたの最後の魔術のおかげ。けれど力を使い果たしたあなたは、もうかの地に戻ることはできない。生きて、あなた一人で逃げおおせていれば、国の再興もあったかもしれないのに」
語るミアの肩が震える。支える手に力を込めるルーファスに、そっと彼女は続けた。
「あなたには申し訳ないと思っていた。償うことなど、到底できないほどの重荷を負わせた。わたしなどのために――」
「ミア、違う! 私は……!」
思わず声を張り上げようとして、ルーファスは唇を噛んだ。父親が誰かもわからぬ子を生んだ正妃は、産後あえなく亡くなり、彼女はたった一人針の筵のような王宮で育てられた。それでも留め置かれた理由はただ一つ、その類稀なる美貌だった。哀れな彼女はしかし、帝国側にとっても魅力で、ゆえに保護の対象となった。侵攻のあの夜、大人しく皇帝の側室になる命に従っていれば、自分と違い殺される危険もなかったのだ。ただ、ルーファスにはそれを許せぬ理由があった。今まで、ひと月の間決して口にしなかった理由が。その訳を知らぬミアは、何かを振り切るようにして、言葉を次いだ。
「違うと言いたかったのはわたしのほうだ。ただ、わたしはこれ以上、あなたの負担を増やしたくなかった。この地に――たとえ不毛の大地であろうとも、同時に帝国からの手もここまでは届かない。もう逃げる必要はない自由の土地に連れて来てくれたことには感謝している。心から……でも、あなたは十分に義理を果たした。もしもあなたが望むなら、この先は別の道に分かれてもいいとわたしは覚悟している」
何を、彼女は言っている――?
ルーファスが衝撃のあまりに手を離したことを、彼女は誤解したらしい。悲しげに俯いてしまったのだ。皮肉にも、そんな悲しみがより美しく蜜色の瞳を彩る。あくまでも正妃の血筋は受け継いでいるのだと示すかのように。ミアは、気丈に微笑んでみせた。そう、努力していた。
「でも、今すぐには無理だな。あなたには悪いが、わたし一人では到底この砂漠で生きていく力はない」
まだ、と小さく付け加えた声が耳に残る。ルーファスは自身の両手を握り締め、耐え切れずに窓を見やった。今夜は、月が明るい。楕円形の赤い月。故郷とは違う、異なる地の不思議な月。かの地とは気候も風土もまるで違い、人々が崇める神さえも異なる。その大地を守護する神秘的な力が自らの魔力と引き合ったのか、それともただの偶然なのか――兵から逃れ共に崖から海に飛び込んだ後、気が付けばこの地に流れ着いていた。
予想に反して二人は言葉に不自由せずに済み、ただの旅人として受け入れられた。ミアなどは、肌の色だけで見ればこの地の人と大差がない。むしろ、ルーファスはそれを嬉しく思っていた。自由と引き換えに使い果たした魔力に、執着も未練も感じていなかった。ずっとこの旅が続いていくのだと、当然のように思っていた。
なのに、ミアは言うのだ。無自覚に、残酷な言葉を。
「ルーファス、わたしをあともう少しだけ共に連れていてくれ。せめてわたしが、この地で生きていけるようになるまで……」
声が出ない。養子となって王家の男子として魔術の厳しい訓練を受けた時さえ、これほど胸を抉られるような痛みは感じなかった。目を見開いているルーファスの心をどう勘違いしたのか、彼女は顔を背ける。
「わかっている。迷惑をかけていることはずっと知っていたから。それでもあなたは優しいから、わたしを見捨てずにいてくれただけだと」
だから――と、ミアは覚悟したように口にする。赤い月の光が差し込む部屋で、金の輝きを髪からも瞳からも美しくきらめかせながら。
「だから、これ以上あなたに頼る比重を増やしたくない。増やさないよう、努力する。あなたに心配をかけないよう、もっと強くなるから……」
まるで見当違いなことを言い続けるミアに、堪えきれなくなった。ルーファスは振り向きざま、彼女の腕を掴む。ふつふつと、胸の内から今まで押さえつけてきた感情があふれ出した。
そうだ、かの地にまだ縛られていたのは、自分のほうだったのかもしれない。もう身分も血筋も、この地には存在しない。まるで過去の残滓――自身の心が浮かび上がらせていた、蜃気楼だったのだ。 ルーファスは、頭に浮かんだ言葉をついに声にした。低い、押し殺した声音だ。
「……それなら、私のほうからもあなたに何か要求すればいいんですか」
怪訝な顔をするミア。彼女の困惑は承知の上で、ルーファスは強く見つめる。一度あふれたものはもう止まらない。迸る激情をなんとか抑えながらも、言い募る。
「だってそうでしょう。あなたが『負担』を与えたくないというのなら、それ以上に、私に何かの見返りがあればいいんだ。それで比重は等しくなる」
「それは……そう、だな。そうだ。なぜ今まで思いつかなかったんだろう。わたしにはもう何もない。そう思っていたからだな。いや、元々身分はないに等しかったが……とにかく、何かわたしにできることがあるのなら言ってくれ。名案だぞ、ルーファス」
「言って――要求して、いいんですね?」
「もちろんだ。遠慮なく、教えてくれ」
彼女の真摯な態度は、初めて『義兄』として会った時と同じだった。呼び名さえもそれに倣おうとする彼女に頑として名前だけで呼ぶよう頼み、本来の身分にふさわしくと丁寧な口調を守り続けた自分。その縛りが、これで消えることになる。
確約を取り付け、ルーファスは笑った。まるで屈託のない、親しげな笑い方は初めて見せた素の態度で、ミアがぱちくりと瞳を瞬かせる。その澄んだ瞳と誰よりもまっすぐで純粋な心、そして彼女の存在のすべて――ずっと、ずっと、焦がれてやまなかったのだと、ようやく告げられる瞬間だった。
「では、私のものになってください、ヤーミアーナ。……いいえ、私の愛しい旅の相棒、ミア」
意味は、しっかりと伝わらなかったらしい。それこそ衝撃でか、固まっている彼女の片手をゆっくりと取る。苦笑して、ルーファスはその甲に口づけを落とした。
「王家に迎えられて以来五年、私がひそかに望んでいたのは、王位でも国でもなく、あなた一人だった。心にもない相手との婚約が決まった時も、本当は逃げ出したかった。私が――俺が、愛しているのはあなただけだと、奪って、何もかも放り出して、誰の手も届かぬところに連れて行ってしまいたかったんだ」
「ル……ファス?」
硬直していたミアが、震える声で呼ぶ。美しい褐色の頬をそっと撫で、ルーファスは瞳を閉じた。赤い月に、懺悔するかのように。
「あの悲劇は、そんな私の心を読んだかのように起こった。私への罰でもあり、そして……最高の奇跡でもあったのです」
流れる金の髪も、自分と違う滑らかな濃い色の肌も、やわらかな肢体も、今、こうして目の前にある。様々なものを失ったけれど、最後に、自分に残された最高の贈り物だ。
「抱きしめても、いいですか?」
想いを伝えた時よりも、どうしようもなく緊張する。子供のような自分に驚きながらも、ルーファスはそっと訊ねた。かなり長い時を待って、やっと、ミアが小さくかすかに頷いた。その頬は、紅潮していた。
堪えてきた歳月と想いの深さの分だけ、初めて交わした抱擁は甘く、心を震わせる。長い髪に指を指しいれ、梳くように愛でる。優しいルーファスの仕草に、ミアはかすかな声でとつとつと語り出した。
「何もかも失って……わたしは、わたしの想いのせいだと……ずっと、不義の子として冷たく扱われようとも耐え、懸命にまっすぐ歩んできたのに、あの瞬間、どうしようもない黒い感情に支配された。たとえ一瞬でも、国を恨み、あなたの許婚を恨んで、全て滅びてしまえばいいと願った。そんな自分が罰を受けたのだと、ずっと、わたしは――」
信じられない思いでミアの顔を覗き込む。彼女の頬には透明な涙が伝い、流れ落ちていた。
「ミア……では、では私たちは」
同じ想いを隠してきたというのか――喜びと切なさと、複雑な感情があふれ、ルーファスもそれ以上言葉にできなくなる。噛み締めるように黙っていたルーファスは、しばらくして、苦く微笑む。
「もう、私たちも、苦しみから解き放たれていい時だ。そう、思いませんか」
涙を拭いとる指先が、わずかに震える。この手に残された、かけがえのない宝。愛しい少女を、一瞬の躊躇の末にルーファスは再び抱きしめた。そうっと、大事に口づけて、この奇跡の瞬間を味わう。
「失ったものの分まで、私たちが新たに積み重ねていくのです。この熱砂の地で、二人で、ともに生きて――」
こくり、と頷いたミアの頬に、もう涙はなかった。しとやかな金の髪が、寝台に広がる。
不毛の地でようやく芽生え、伸びることを許された愛の息吹は、熱砂に負けぬ熱い砂漠の花になる。生まれたばかりの恋人たちは、互いを強く抱きしめ、想いを伝え合う。
赤い夜は、そんな二人を優しく包み、静かなる祝福を与えたのだった。
Fin.
読んでくださり、ありがとうございました。少しでも楽しんでいただけたら幸いです^^