9. 僕
光が差し込み、僕の瞳は開かれた。壁と老人。そして荒野。僕は帰ってきたのだ。
「どうだったかい?」老人はさっそく僕に訊いた。彼は僕が帰ってくるのをずっと待っていてくれていたのだ。
「闇が見えました。壊したはずの闇の塊が」
「そうだろう。あの闇は君の中に長年住み着いていたんだ。君の精神が成長するのを妨げていたんだよ」
「だから、あんなに恐怖を感じたんですね」僕はそう言うと唇を噛みしめた。
老人は真剣な眼差しで僕を見ていた。昨日の夜、ログハウスでスープを作ってくれたあの時の穏便な表情はどこにもなかった。
彼はペンキを持ちながら僕に向けて話し始めた。
「あの闇はね。君のような年頃の人間には決まって住みつく習性があるんだ。奴は新しき世界に踏み出そうとする者だけをいつも狙うんだよ。心に足枷をつけるんだ。その足枷をつけたまま第二世界に飛び出そうとするといつも大変なことになる。便箋を書いた人間はそれを君に伝えたかったんだ。君が重くのしかかる現実に打ちのめされないように。君が目標を目指して真っ直ぐ進んでいけるように。雨雲のような危険というのはそういうことなんだよ。遥か遠くの空からやってくる真っ黒い闇。それが遠くにあるうちは向こうの場所で雨が降っているから、こちらには関係ないんだ。でも雨雲はいやでもこちらに近づいてくる。晴天だった空にも陰りが見え始める。君はそれを見て大きな焦燥に駆られるんだ。自分の体がずぶ濡れになったら、もう自分はここにいられなくなるんじゃないかって。永遠に繰り返される波というのはその焦りが君にもたらした日々の日常だ。幸運な時、不幸な時。その反復された運命の行為がやがて大きな波となって君に襲いかかってくる。せっかくここで学んだことも、あちらに行けば虚しくも通用しなくなってくるんだ。裏切りと虚構が散らばる、あの第二世界ではね」
「さっきから言っている、第二世界とはなんですか?」
老人は首肯いた。そして壁のほうを指差した。「あの壁を越えた場所のことだよ。あの木板の向こうには君が想像しているよりも恐ろしい、秩序の乱れた世界が待っているんだ。参考書を手に今まで動いてきた君には到底考え付かないであろう世界がね」
僕は息をのんだ。そして数メートル先にある壁を刮目した。「近いうち、国境線を越える時が来るんですか」
「そうだよ。君は成長して大人になっていくんだ。この荒野はその準備をするための場所。私はその手伝いをしにきた。君が大きな自信をもってあの壁を越えられるように。第二世界に行っても、ここに来る前と同じように希望の光を抱けるようにとね」
老人は続けた。「人は誰しも、皆同じ荒野を持っている。砂嵐、ぬかるんだ土地、そして悪夢。そして、それとは対照的なログハウスの存在。荒野で疲れきった身体を温かい環境が癒してくれる。全ての人が心にそんな場所を持っている。君だって決して例外ではない。砂嵐に顔を引きはがされそうになっても、現実逃避の列車に乗り込んでも、君はしっかりとログハウスで休養し、壊れゆく闇の復讐とも対峙することができた。君はこの戦いに勝利したんだ。目を潰すかのごとく飛んでくるあの砂でさえ、君は自分の力に変えて立ち向かった。壁のように、波のように、君を襲う新たな脅威も君はチャンスに変えて乗り越えることが出来たんだ。あの便箋にも書いてあっただろう。君はそれを成し遂げたんだ」
僕は文面を頭に描いた。老人の言っていることは便箋の終わりごろに書かれていた。
障壁のような強い信念と、荒野の地を舞う砂嵐のような大きな意志をお持ちになってください。
未知の脅威も好機に変えて。僕は本当にそんなことをしていたのだろうか。僕は自分の力を過小評価していたのだろうか。自分が自分でなくなるような感覚に僕は頭が蕩揺した。両手に重くも軽い自信を持たされて、激しく戸惑っている。僕はその札束のようなそれを早く誰かに渡したくて老人の顔を見た。眉雪な人はそんな僕を、救うようにして破顔した。
「君が困惑しているのは分かっているよ。こっちへ来てごらん」
老人は歩みを始めた。目指しているのは壁の方だ。僕は首を傾げ、それから素直についていった。
二分くらいで僕らは壁の前に着いた。老人が振り返って、僕に合図のようなものを送る。いったい何をする気だろう。僕はそう惟った。
何重にも刻まれたしわの手。彼は懸命そうに塗料を置いた。僕は押し黙って次の「こと」をひたすらに待った。
彼はバケツを掲げた。そしてその中に入っている青色のペンキを颯と木板にぶちまけた。僕は周章狼狽した。思いがけない出来事に、僕は老人に対して怖気づいてしまった。液が飛び散って枯葉色のコートに未熟な点がつけられた。
老人の後ろ姿が僕の目に映る。彼は軽くなったバケツから手を放した。鉄のさざめきが冷たい地面に反響する。
彼は青くなった壁のほうを向いたまま、背後にいる僕に謂った。それは奇妙なほどに落ち着いた語りだった。
「青、という言葉は『青』という単なる色の種類を表すだけでなく、他にも様々な意味合いがあるんだ。若さ、未熟さ、冷静さ、そして希望。まさに今の君には相応しい言辞じゃないのかね。この壁にぶちまけられたペンキが、君の意力を差すものだとしたら、それは醜くも逞しい抵抗そのものなんだ。壁の向こうにある第二世界と、この国境線に対する、烈々とした反撥。そう、この散らされ方の乱雑さも全て、君の全てを意味しているんだよ」
彼はそこまで言い、突然振り返って僕を注視した。「君には壁を乗り越えていける勇気がある。向こうへ行っても挫けずに進んでいける力がある。私はそれを強く固く信じているんだ」
僕は老人の目を見た。視線の光はまるで砂嵐の勢いを一瞬にして失わせるような覇気が感じられた。どうして彼はこんなにも確信に満ちた目をしているのだろう。僕はこの光にこれ以上の言葉は必要ないと思った。それくらいその光は美しく、そして強かった。
僕は無言で頷くと、壁のもとへと歩みを始めた。その刹那、僕の中で曖昧に作用していた混迷は言葉に吸い取られるように消えていった。
この荒野に来てから、僕は何十歩、何百歩と、歩行という行為を繰り返してきた。それがもう終わってしまうと思うと、僕はいささか寂しい気持ちになった。でも、これが運命なのだ。これはもう救いようのない出来事なのだ。あの時抱いた感情も、今抱いている感情も忘れないようにとっておくべきなのだ。
顔を横切る風が僕の涙を誘った。堪えようとしたが水滴はあふれて出てきてしまった。この涙が感情的な緊張によるものなのか、はたまたそうではないのか、自分の感情のことなのに僕は答えを出すことができなかった。
僕は壁の前に着き、祈りを捧げるかのように目を閉じた。すぐに様々な情景が頭の中で舞踏した。僕は変われるだろうか。同時にそんな疑問も生まれた。僕は涙をふいてその疑問に答えを出した。「青の持つ意味」。「僕」は納得してくれたようだった。
若さ、未熟さ、冷静さ、そして希望。
砂嵐のない荒野を背後にして、僕は壁に手をかけた。くぼみのようなものはなかったが、適当なところに足を掛ければ、自然と壁は僕に従ってくれた。登る途中、急に便箋の最後の行が頭に浮かんだ。
頂上まで登りきったとき、僕は後ろを向いて、老人の姿を捜した。しかし、彼はもうログハウスに帰ってしまったらしく、結局僕が見たのはぬかるんだ地面と今にも風に飛ばされそうな三個のバケツがあるのみだった。