1. 壁、色
僕の前には、国境線がある。
「線」と言っても実際に目に見えるわけではない。所詮は権力のあるものが上から定規で真っ直ぐに引いただけの単なる「落書き」に過ぎないものだ。しかしその落書きが意義のあるものになってくると瞬く間に国境線は恐ろしい力を発揮するようになる。たかが目に見えないものに人々は奮起し、憎みあい、争い合う。目に見えないから余計に厄介なのだ。しかし、国境線も悪い事ばかりではない。国境線は平和を保つ力もあるのだ。仕切る何かがあるから、平穏を手にすることが出来る。理想的な平和など存在しない。味方がいるなら必ず敵もいる。悲しい事実だが一時的な平和でも当人が安心できるのなら別に問題はないと僕は思う。
じゃあ、僕の目の前にある国境線はいったい何なのだろう。平和を維持するためのものだろうか、それとも争いを加速させるものだろうか。
分からない。だが、これだけは言える。僕はこの国境線について深く考えなければならないのだ。この国境線が何のために引かれ、そして何のために作られたのかを。答えを出さなければならないのだ。
縦は四メートル、横は五センチほど。雑に作られた板がいくつも並べられ壁を造っている。板は木製なので、何か大きな機械を使えば壊せないこともない。しかしそれは規則に反するような気がする。僕はまだこの壁(つまりは国境線)の向こうを見たことが無い。しかし、だからといって力付くでそれを成し遂げてはいけないのだ。この壁は僕に対する挑戦状であるような気もする。僕はそれに受けて立つだけだ。
壁と僕がたっているのは、木が一本もない荒野の大地だった。時偶吹く風は強風だったり弱風だったりした。遠くの方ではその風によって砂が巻き上げられているのが見える。僕は枯葉色のコートを羽織、ジーンズを穿いていた。運動するには少し不向きな恰好だ。しかしここでは着替える場所はないし、たとえあったとしても自分はいま着替え用の服を持っていない。結局はこれで行くしかない。仕方がないのだ。
僕がこれからすることは意味のないことかもしれなかった。しかしこの行為以外の有効な手段は僕には考えられなかった。僕の考えた手段はまさに単純明快なこと。「壁に沿って歩いていく」ということだった。壁と向き合い、壁が示す光景を順々に明かしていく。それをすれば僕に課された壁の存在意義の追究も成し遂げられるような気がした。確証なんてない、さっきも言ったようにこれは意味のないことなのかもしれない。でも僕はこの問題について、早めに解決しなければならないものと考えていた。この壁は不特定多数の領土侵犯を犯す者に対してあるのではない。この壁は僕のために建てられているのだ。僕にメッセージを送るために建てられたのだ。そんな気がする。
僕は先ほどの計画通り、国境線に沿って真っ直ぐ歩き始めた。荒野の向こうには深緑の山が見えていた。果たしてこの壁はあそこまで続いているのだろうか。もしそうなら壁を建てるというのはひどく根気のいる作業だ。この壁に限らず、他の国境線でもこうしたオブジェはあるのだろうか。恐らくあるだろうと僕は自分で結論を出した。学校の社会科で国境線上に建てられた壁のような物体を教科書で見た記憶があったからだ。しかし見たことがあるという文字だけの記憶があるだけで、実際の写真についてはまるで覚えがなかった。しかし目の前の壁のような建造物が世界各地にあるというのは事実だ。こんなものを造るためにいったいどれだけの労力が使われているのか。造っている途中で自分がしている行為について考えてみたりはしないのだろうか。自分の心の弱さに夜な夜なうなされることはないのだろうか。僕だったら耐えないと思う。人間の愚かさを具現化した排他的な世界を自らの手でつくりだすということは。スコップを握る手も、首もとをつたうその汗も、羞恥の証として青い心を満たすだろう。
だが、国境線には確かにメリットもつくりだしている。前に言った国境線は平和を維持する役割も果たすという考えだ。壁を建造する人たちはその思いも同時に抱いているのだろうか。彼らは平和を願っているのだろうか。それとも国家が都合良く国民を動かすために働きかける「愛国心」からか。もしかしたら単なる金のためか。特に理由もなく、不作が続いて貧しい生活を強いられた農民たちが、愛する家族を守るためにやっているだけなのかもしれない。僕は右手を開いて、泥で汚れた木板の壁にそれをつけた。荒野の気温は高いのに、この駱駝色の壁だけは虚しいほどに冷たく、そして無慈悲だった。自分も含め人間はこんなものに平和を保ってもらっているのか。僕は悲しくなった。歩く速さも自然と遅くなっていった。
赤い風が吹き荒れ、僕は思わず目を閉じた。砂が僕を激しく責めたてるようにして僕の身体を、足を、そして眼球を襲った。旅の邪魔をしようとでもいうのだろうか。そんなに早く答えを出さなければいけないのか。考える時間は出来るだけ長い方がいい。僕が早くに答えを出すか、答えを出す前に襲撃してくる風や砂に僕の身体が朽ちてしまうか、二つに一つしかない。
疲れたので僕は地べたに腰を下ろした。ジーンズが若干泥で汚れたが、これでもあまり被害が出ないところを選んだつもりだ。胡坐をかき、右側を見る。壁にはクレヨンで描かれたアルファベットの二十六文字がまるで暗号のようにしてそこに存在していた。僕は目を細めてそれをじっくりと眺めた。いったいこの文字は何を意味しているのだろうか。僕は壁に寄ってみた。もしかしたら僕に関係のあることかもしれない。さっきも言った通りこれは特別な壁なのだ。この壁は僕のために建てられたもの。単なる国境線ではないのだ。僕は右手を出し、アルファベットの文字をなぞるように辿った。なぜそうしたのかは自分でもよく分からない。はっきり言えば意味のないことだ。でも僕は何とかしてその暗号の意味を知りたかった。いま自分が置かれている状況をしっかりと把握しておきたかった。
赤、青、黒。使われているクレヨンの色は様々だった。黄、橙、緑…… 書かれているアルファベットはAからZまで万遍なく使われている。それも重複せず、どれも一つずつ描かれている。文字は横書きで並べられておらず、疎らに散らばっていた。(それはまるで意味のないように、または何のとりとめもないようにして描かれていた)
砂が舞う音が遠くから聞こえてくる。僕は結局文字をなぞるのをやめた。ここでいくら考えても答えは出てこないと思ったのだ。ここは旅の終着点ではない。ここで長居をするよりはもっと先の「新たな発見」を探す方が賢明だ。僕はゆっくりと立ち上がった。ジーンズについた砂を手で掃い落すと、僕は再び単調な歩行を始めた。
日が徐々に西へと傾いてきた。あれから一心不乱に歩き続けているが、一向に景色は変わらない。眼球のスクリーンは未だに「荒野」を映し続けている。噴き出した汗もいつの間にか乾いてしまっている。この刺激のない動作の繰り返しに、僕はどうしてか自分がひどく無力な存在に思えてきてしまった。疲れたら座り、しばらくすれば立ち上がる。先をひたすら進み、疲れたらまた座る。まるでロボットのようだ。進み続けるだけの寡黙な時間。もはや歩くという行為でさえも自分の意思で行われているのか僕は疑問に思えてきた。
僕は両手の拳を握り、壁を叩いた。期待していたような音は出ず、虚しい音階の羅列を小さな耳に入れただけだった。
答えは目の前にある。求めているものはこの壁の向こうにある。僕は森羅万象全てのものを握りつぶすかのように拳を強く握った。一秒前の力よりもさらに強く、さらに強く……。
僕は全身の力を抜いて、身体の赴くまま壁に突っ伏した。すでに身体は自分のものではなくなっていた。力を抜いたのも自分の意思ではなく、力の方が勝手に抜けていったという感覚だった。僕は身体の向きを無理やり反対にし、壁にもたれるようにしてその場に座り込んだ。一連の行動はまるで糸の切れた人形が崩れ落ちる姿のようだった。首を傾け、両腕は脱臼したように生命力がなく、両足は荒野の方向へと意味もなく伸びている。その姿を目撃していたのは西へと向かう一つの恒星だけだった。このまま、消えていくのだろうか。起こるはずのない想像が頭の片隅に浮かんだ。自分の身体が蒸気になり天へと飛んでいく。砂嵐が僕の内臓や顔を僕からひき剥がしていく。荒唐無稽なことだ。でも笑うことはできなかった。笑う力すら今の僕には残っていなかったのだ。
幼子のような大きさの手が僕の目蓋を覆った。眠りがやってきたのだ。もはや人形と化してしまった僕は、その幼子の力になされるがまま従った。日はいつしか地平線の向こうに沈み、再び次の目的地を目指していた。僕は星空を眺め、忘れてしまったとある星座の名前を思い出そうとしていた。