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花守り人(後編)

「彼女は、僕を責めるような事は何も言いませんでした。ただ、この街を離れる前に一度、家に来て欲しい、そう言っただけでした。

 仕事の引き継ぎやら、引っ越しの手配やらで、この街を離れる事になったのは二月の下旬に決まりました。そして、この街を出る前日、彼女の家を訪れました。僕はてっきり、街中の古い町家に住んでいるのかと思いましたが、郊外にあるらしく、私鉄で終点まで行って、そこから十五分くらい歩いて行きました。朝の雪が所々に残る竹林を抜けて、予定していた時間より早く着いてしまって。どうしよう、と門の前に立っていたら、幸いその家の秘書の方が気づいて、中に招いてくれました。

 彼女は東向きの庭に面した座敷にいました。髪を一つにまとめて、化粧気もなく、紺の作務衣を着ていました。目の前には常滑の壺と、その傍らの白い布の上には辛夷と青いナナカマドが置いてありました。彼女はそれらに向かって、深々と手をついてお辞儀をすると、辛夷に手を伸ばしました。花を活ける、ただそれだけなのに、ぴんと張り詰めたような緊張感を感じました。声も出せないような空気が流れていて、それは彼女が花を活け終えて、再びそれらに向かって頭を下げるまで続きました。

 ……その姿を見た時、僕は美しいと思いました。彼女は綺麗な人ですけど、花を活けていたあの姿が、それまで見た中で、一番美しかった」

「それを彼女に伝えましたか?」

 その時になって、僕は口を挟んだ。すると彼は苦笑した。

「伝える前に、怒られました」

「怒った!?」

「こんな恰好をしている時に来て、それを黙って見ているなんてヒドイ!って」

 思わず僕は笑ってしまった。彼女らしい、そう思ったからだ。彼もつられて笑い、ふと懐かしそうな目をして

「……辛夷は別名田打ち桜と呼ばれる、いわば春を告げる木で、ナナカマドは七回竈に入れても燃えないという頑丈な木だ、と僕を駅まで送る途中の道すがら、彼女は教えてくれました。彼女なりのエールなんだ、そう思いました。ゴメンとかすまない、とか言わなければいけない台詞がありましたが、結局いえませんでした。そして最後までさよならも言わずに僕たちは別れました。

 でも、彼女の花を活ける姿を見た時、ふと思ったんです。何か花器を贈りたい、と。それで父が懇意にしていた備前焼の陶工に頼み込んだんです。花に敬意を込めて活ける、そして花を最も美しく活ける事のできる、花守りの為の器を作ってもらいたい、と」


 彼女は風呂敷を解いた。桐箱の中から現れたのは、備前焼の水盤。その器は半分は窯変しており、青みを帯びた灰色になっていた。それは光を受け、月の光のような銀色に輝いた。

 彼女はそれを黙って見ていたが

「お兄さん。私なあ、お母さんにもお祖母さんにも、家を継げって言われた事ないねん」

 ポツリとそう呟いた。それは意外な台詞だった。彼女の立場なら、家を継ぐ事が暗黙の了解になっているのだと思っていた。

「それどころか『好きなように生きよし』って言わはってた。そう言われる度、二人には他にやりたい事があったけど、諦めてきたんかな、思てた……けどな、家には先代さん達が残した文書やら巻物やら、昔の花器やらがぎょうさん残ってる。それを見て、触れて、私はいつも感じてたんや。ただ時間が経って続いてきたんやない、先代さん達が守ってきたから、この家も、花も、続いてきたんや、て。……私もそれを守る、守りたい。そう思ったから継ぐ事を決めた。

 でも、だからこそ、私は一緒になる人は自分で探して自分で決める、そう思てた。……あの人に最初に会うた時、物に思いが宿る、そう言わはったやろ?その時、この人や、ってそう思ったんやけど……」

 彼女は苦笑を浮かべた。

「まさか奥さんがいる人やなんてなあ。しかも、それを黙ってはったんやで。そら確認しなかった私も悪いけど、結婚指輪もしてへんかったし……すっかりだまされた。お兄さんの言うとおり、私はほんまに男の人を見る目ないわ。

 ……けど、そう思ても何や嫌いになれへん。かえって気の毒でな……あの人も、あの人の奥さんも」

 そっと水盤に手を伸ばして、優しく撫でた。いたわるように。

「お兄さん、今日見た事、誰にも言わんといてくれる?お墓の中まで持ってってくれはる?」

「……いいですよ。約束します」

 そう言うと、彼女は手を伸ばして僕の手を握ると、ポロポロと泣き出した。今まではよく怒ってはいたけれど、涙を流した事は一度もなかった。声を殺して、小刻みに震えている彼女の手に、僕はもう片方の手で励ますように軽くぽんぽんと叩くと、そのままそっと重ねた。こんな時、優しく抱きしめてやるのが、いい男なんだろうな、と思いながら。


 清厳流の秋の展示会が、今回もデパートの催事場で開かれた。

 例によって、招待客のみという初日に出かけ、いつもとは違う花に囲まれた空間に足を踏み入れた。

 そこに展示されていた「月の桂」というタイトルの花。あの水盤に、まだ花のない銀木犀、櫨紅葉、竜胆が活けられていた。

 日本では月には兎だが、中国では桂の木を切る男がいるのだという。この桂は木犀の事を言っているのだそうだ。木犀は切ってもそこからすぐに芽を出す。その生命力の強さに欠けては満ちる月の再生を甘美でどこか懐かしい香りに月の優美な姿を重ねたのかもしれない。

「あいかわらず花で遊んでいるようやね」

 僕の隣にいた婦人達から、そんな囁き声が聞こえてきた。それは褒め言葉なのか、けなしているのか、僕には判断がつかなかった。

 ふと見ると、彼女が後援会の人かもしくは関係者と談笑している姿が目に入った。それを遠目に見て、僕は出入口へと踵を返した。そして持参していた、近々「一閑人」で催されるガラス細工の作家のギャラリーを兼ねた即売会の案内葉書の表にメッセージを書いて、受付係の人に「若宗匠に」と渡した。

『月の桂、拝見しました。先日、当店に漆桶がきました。何十年も使い込まれ、古さびた良い味が出ております。貴女なら、どんな花を活けられますか?』

 直接伝えても、渡しても良かったかもしれない。けれど、あの場にいたのは「清厳流次期家元 清原春華」の顔をした知らない女性だった。

 僕は足早にその場を離れた。背後のむせるような花の気配から逃れるように。

次は一話完結の話を書きたいと思っています。つねに、そう思っています。

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