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真夏のあやかしの恋(後編)

 不幸を招く簪など受け取った以上、多少の害は覚悟していたが、それから一年、僕の周囲は穏やかだった。客足が遠いのもいつもの事、身体が二つ欲しいくらいデザインの仕事が舞い込んでこないのも、いつもの事だ。正直言って、本当に不幸の簪だったのだろうか、と疑問に思う程。

「ええ簪やね」

 店を訪れた客は必ず目を止めて、そう言った。

「申し訳ございません。それは非売品なんです」

 相手は残念そうな表情を浮かべて帰っていく。不本意だが仕方ない。売れば必ずクレームがつくに決まっているのだ。いや、クレームなら良い。僕には今のところ害が無いが、もし売った相手が不幸にでもなったら寝覚めが悪い。いっそホープのダイヤモンドのように博物館へ寄贈しようかと思ったが、持ち主を不幸にする簪です、と言って、はたして引き取ってもらえるかどうか謎だ。

「……それにしても手のかかるお嬢さんだよな」

 簪を磨きながら、僕はそう呟く。というのも銀製品は錆びやすいので、毎日磨かなければならないのだ。英国貴族に仕える執事の重要な仕事の一つが、銀器を磨く事だとか聞いた事がある。

 銀には、金のような明るさとは違い、沈んだ静かな光と、どこかしめやかな美しさがある。そう思うのは、あの夜の泣いていた娘を思い出すからだろうか。あれ以降、僕は店に寝泊まりをしていないので、姿を見ていないのだが。

 見ていないというのなら、あの男も今どこで何をしているのだろう。十万といえば、まとまった金額ではあるが、生活資金としてはせいぜい1ヶ月分だ。給料を得るために就職するには、定まった住所が必要だが、とても敷金礼金が払える額ではない。そして職無しの半ホームレスに部屋を貸す物好きもいない。どん底から抜け出したいと願っても、現実的には難しいのだ。その日その日の食費に使って、とっくに底をついたかもしれないし、もしかしたら、この街を離れる資金にしたかもしれない。彼にとっては、居心地の悪い場所でしかないだろうから。


 再び祇園囃子がちまたに流れる季節になった。

 そろそろ閉店しようかと思っていた時、一人の客が訪れた。仕事の出来るトップ営業マンといった風情の。

「お久しぶりです」

 柔和な笑顔を浮かべて、丁寧に頭を下げた。一瞬、誰だかわからなかったが、よくよく顔を見て思い出した。そして一年前との余りの違いに、空いた口が塞がらなかった。

 あの後、彼は古い友人に何度も頭を下げて、暫く下宿させてもらい、その間に再就職活動を精力的に行った。その結果、実力・成果重視の資産運用の投資不動産コンサルティング会社に中途採用された。そこは寮もあったので、一石二鳥だったという。不動産と資産運用の勉強をして、がむしゃらに働いたそうだ。やはり、もともと仕事のできるプロ意識の強い人だったのだ、と僕は感心した。

「丁度、この近くの物件を見に来たので寄らせて頂いたんです。それに……」

「……何です?」

「あの簪、もう売れましたか?あるなら見せて頂きたいんです」

 不幸の元凶と言い切った物を何故、と思いつつも、僕はテ-ブルの上に緋の袱紗をひいて、簪をのせて見せた。彼は、どこか安堵した表情を見せ、意外な事を口にした。

「この簪、買い戻したいんです」

「……はい?」

「それとも、他に商談でも入っていますか?」

「いえ、それはないですけど……本気ですか?」

 僕は信じられない思いで念を押した。やっと不幸のどん底から這い上がってきたのではないか。彼は苦笑しながら

「あの頃は、もう精神的にも肉体的にも限界で……何かのせいにでもしなければ、自分を支えていられなかったんです。この簪が悪かったわけじゃない」

「でも、何故わざわざ……。彼女にでもプレゼントするんですか?」

「いえ、ただ手元に置いておきたいんです。実は、手放してからずっと心に掛かっていて……」

 確かに僕の所に一年程あったが、これといって不幸な目にあった覚えはない。僕は買値と同じ値段で売ることにした。

「有難う、これで胸のつかえが取れました」

 晴れ晴れとした表情で彼は言う。けれど僕は、何か釈然としないものが残った。が、本人が望む以上仕方がない。

 その時。くすくす……という微かな女の笑い声が聞こえた。周囲を見回したが、僕と彼以外は誰もいない。店内の空気が不意に冷たくなった。エアコンを強めたかのように。ふと見ると、彼の腕のところに一本の黒い糸が付いていた。注意しようと口を開きかけた時、ハッと気づく。それは糸ではなく、黒い髪。

 髪は、彼の身体に幾筋も絡みついていく。まるで獲物を捕らえた蜘蛛の糸のように。やがて彼の首筋に背後から白い腕が伸びてきた。彼を抱きしめたのは、あの日見た市松人形のような娘。僕は金縛りにでもあったかように、身動きも出来ず声すらも出なかった。娘は彼の肩越しに僕を見ると、ニタリと笑った。そして姿も髪も、まるで空気に解けるように消えた。

「じゃ、これで失礼します」

 そう言って彼は店を出て行く。彼が路地を歩く音を聞いた時、一気に汗が噴き出した。僕は慌てて外へ飛び出す。

 引き留めなければ。そう思ったが、声が出なかった。細くて暗い路地を歩いて行く彼の背中を僕は見送る事しか出来なかった。


大変長くなってしまいました。読んで下さった方、有難うございます。

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