風の音の契り(後編)
僕は尾形直樹を連れて、彼の暮らしているマンションまでタクシーを走らせた。
部屋の中は熱が籠もって、ムッとする空気だった。彼は力尽きたように、ベッドの上にバタリと倒れこむ。
「夏の部屋は熱が籠もるから、かなわないな」
そう愚痴りながら、僕はエアコンをつける。こうして立っているだけで汗が噴き出るのだから、かなわない。が、ベッドの上でだるそうにしている尾形は
「……でも、秋の夕暮れに比べれば、ずっとマシですわ……」
独り言のように、そう呟いた。僕は思わず振り返る。
「秋の夕暮れに、嫌な思い出でもあるのか?好きな女にこっぴどくフラれたとか?」
その時、チリン……と風鈴の音がした。
目を向けると、エアコンの風の通り道に風鈴が下げられており、それが微かに揺れながら、涼しげな音色を奏でている。
「……とりあえず、牛丼でも買ってくるよ。精のつく物食わないと」
そう言って、僕はベッドに倒れ込んでる彼を置いて、地獄の釜の蓋があいたような灼熱の外へと出ていった。
その日の夜、和樹はベッドに横になったまま、彼女が現れるのを待っていた。が、彼女は姿を現さなかった。
「……何でや。何で、来いひん?」
朝の光がカーテン越しに部屋に差し込んできた中で、彼はそう呟いた。が、風鈴は音一つ鳴らす事なく、ただ沈黙したままだった。
翌日、僕は尾形のスマホに電話をしてみたが、留守電になってしまって折り返しの連絡もない。念のため会社に電話すると、昨日、二、三日休ませて欲しい、との連絡があった、という。僕は、部屋の中で倒れているんじゃないか、と心配になり、彼の部屋へと向かった。この暑い最中に、極力外出は避けたいのだが。
インターホンを何度が押した後、室内で物音がして、彼が姿を現したのを見た時は、正直ホッとした。
「ちゃんと食ってるのか?といあえず差し入れにスポーツドリンク買ってきた。夏は、これを頻繁に取らないと、熱中症で倒れるからな」
リビングのテーブルの前に、力なく座っている彼の前に、僕はペットボトルを数本、並べた。
「……昨夜、彼女、来いひんかったんですよ……」
「……は?」
「先輩……、僕、母親の話、した事ありましたやろか?」
「……いや」
「僕の母親、僕が4つの時に家を出て行ったんですよ。僕、母親の事、ほとんど覚えてないんやけど、その時のことだけは、鮮明に記憶に残っているんです……。
秋の夕暮れ時、玄関の引き戸のガラス越しに夕陽が射してきて、玄関先を真っ赤に染めてました。母親はコートが長めのジャケットを着て、バック一つ持って、靴を履いているんです。その背中が影みたいに見えて
『どこ行くん?』
そう聞いたんです。でも母親は一言も発しなかったし、振り向きもしいひんかった……荒っぽく立ち上がると、家から出ていったんです。目の前で、引き戸が高い音立てて閉じて……僕は、もう母親に会えへんような気がして、玄関先の大人用のサンダルを引っかけて、外に出たんです。
僕は子供やったから、大人はみんな、おんなじに見えたけど、母親が腕を組んで、足早に歩いてく相手の男は、父親よりもずっと若くみえました。
……母親とは、それっきりです。生きてはるのか、死んではるのかもわかりません……」
「親父さん……再婚は?」
「してはりません。今でも元気な祖母が、家の事は全部してくれはったから、女手が必要って事もなかったし。……祖母は今でも、母親を悪く言いはるけど、僕はただ、母親に捨てられたんや、としか思ってないんです」
「お母さんに会いたいのか?」
そう訊ねると、彼は顔色の悪い、疲れきった表情に、皮肉な笑みを浮かべた。
「……息子や夫より、若い男を選んだ母親に、今更会いたいとは思いません。でも、そのせいやろか。僕の事、好きやいうてくれる人が現れると、それだけで嬉しなるんです」
「粘着質の彼女」を好きになるのは、それが原因なのか、と僕は思った。母親の苦い記憶が、自分を束縛しようとする相手に引きつけられる理由になっているのかもしれない。自分をそれだけ必要をしてくれている、それだけ大事に思っていてくれる、と思い込んでしまうのだ。それは確かに間違ってはいないかもしれないが。
「……お前は、もう4つの子供じゃないだろう?」
そう言うと、彼は黙り込んだまま目を上げた。
「お前のお母さんだって、その頃のままじゃないと思うぞ」
僕はそう告げると、明日また様子を見に来る、と言って彼の部屋を後にした。
その日の夜。身体は重いのに眠れないまま、直樹がベッドに横になっていた時。
ひやり、とする空気を感じ、彼は目を向けた。朝顔の柄の着物姿の彼女が立っていて、彼を見つめていた。最初に現れた時と同じように。彼は淡い笑みを浮かべると
「……やっと来はったな……風音」
「……かざね?妾の事か?」
「うん。僕はあんまりネーミングセンスが無くて、他に良い名前が浮かばへんかったけど……好きに呼んでいい、言うたやろ?」
彼女は沈黙したまま、彼を見つめた後で
「……お前は、妾が恐ろしくないのか?……こんな事になったのは、妾のせいだと思わぬのか?今までの男どもは、いよいよ心の臓が止まりそうになると、『まだ死にたくない』と泣いて命乞いをしたぞ?」
「……いいんや……もう、裏切られて、離れられるんはたくさんやから……」
そう言って、直樹は彼女に向かって手を伸ばす。が、彼女はその手から逃れるように、後ずさった。彼は目を見開いて、ゆっくりと上半身を起こすと
「……君も、僕から離れるんか?……僕より美味いエサでも見つけたんか?」
嘲るような彼の声と言葉に、彼女はふっと笑った。
「その程度の挑発には乗らぬ」
そして彼を見つめると
「……お前はまるで童と同じ。無条件に愛してくれる母御背が欲しい、欲しいと駄々をこねて泣いているだけ。だが、妾はお前の母御背にはなれぬ」
「……言い訳や」
彼は歪んだ笑みを浮かべて、腕で重い身体を支えながら
「自分に都合の良いこと言うて、結局僕を置いていくんや。あんたも今までの女と一緒や。そうやろ?」
「……お前は妾を最初から恐れなかった。人じゃないと知っていても、命を喰われると気づいていても。……だから、お前は生かしておいてやろう」
そう言うと、彼女はその少女とも女ともとれる顔に、妖艶な笑みを浮かべた。
「……妾が贄に惹かれるとは思わなんだ……お前の命の代わりに『風音』という名を貰うて行こう。お前が、心底惚れた女に裏切られた時、また会うやもしれぬの」
そう言うと、彼女の姿は闇に溶けるように消えた。
その瞬間、まるでエアコンが止まったように、室内に熱が戻ってきた。そんな中、ベッドの上で呆然としたまま、直樹は座り込んでいた。不快な汗が全身に滲み出ていたが、それすらも気にならなくなっていた。
翌日、僕は様子を見に、尾形直樹の部屋を訪れた。彼は昼間から、ふてくされたようにベッドに横になっていた。ふと見ると、あの風鈴が無くなっていた。
「風鈴、どうしたんだ?壊れたんか?」
僕がそう訊ねると、彼は背中を向けたまま
「……先輩。僕は先輩の言う通り、女難の相が出てるんやろか?縁切り寺にでも行ったほうが、ええんやろか?」
振り向きもせず、低い声で彼はそう行ってきた。まだふられた事を引きずっているのだろうか、と僕は小さな吐息をつき、コンビニで購入した弁当や飲み物の入ったビニール袋をその場に置くと
「僕は、お前の、何度ふられても相手を信じて好きになれるところ、すごいと思うけどな」
「……褒めてるんですか?それ」
彼は振り返って、苦笑するように笑った。その顔色を見て、僕は安堵しながら
「とりあえず食って体力つけろ。でないと何も出来ないだろ」
そう告げた。エアコンの利いている室内は涼しく、窓越しに見える夏の空は、まぶしい日の光を浴びて、どこまでも明るく青かった。
尾形直樹をどうしようか、といろいろ考えて悩みましたが、結局こういう結末になりました。