風の音の契り(前編)
梅雨空け宣言が出る前から猛暑日が続き、蒸しても構わないから一雨欲しい、と思っていた頃。
思いがけない一雨がやって来た。
「……まあ、コーヒーでも飲めよ。おごるから」
そう言って、僕は客の前にアイスコーヒーを差し出した。「客」というよりは「昔の同僚」と言った方が相応しいかもしれない。
僕がまだ、デザイン会社に席を置いていた頃、彼、尾形和樹はその会社の営業として入社してきた。人畜無害そうな顔をしているのだが、取ってくる仕事がラブホやキャバクラの広告のデザインが多かった。おそらく先方もからかい半分に、彼に依頼をしてくるのだろうが、当然のことながら、女性社員からは顰蹙を買っていた。が、そういった取引先は支払いもかなり気前が良く、それが会社の資金面ではかなり助かっていたのも事実だった。念のため言っておくと、尾形和樹はかなり業績のよい営業であり、性格も素朴だった。だからこそ色眼鏡無しで、そう言った仕事も取ってきたのだとも言える。
そんな彼だが、僕は密かに「女難の相」が出ていると思っている。理由は「粘着質の彼女」とばかり付き合うからだ。彼がちょっと席を外した隙に、スマホの着信、メールをチェックするのは当たり前。仕事中に「何してる?」としょっちゅうメールをしてくるのも当たり前。仕事帰りに同僚と呑みに出かけたら、「今、どこ?」「何時に帰ってくる?」「ほんとは女と一緒なんやろ?」と、ひっきりなしに着信音がなり、嵐のようなメール攻撃をしかけてくるのも当たり前。勝手に部屋の合い鍵を作って、無断で人の家に入ってくるのも当たり前なのだ。
僕はプライベートまで干渉されるのは嫌いだし、そんな話を聞くと引いてしまうのだが、彼は
「それだけ僕の事が好きやって事やから」
と、まんざらでも無い様子だ。束縛される事に、それだけ自分に惚れているんだと優越感をくすぐられるらしい。当人同士がそれで幸せなら、第三者が口出しする必要性はないのだが。
ただ、女性のすごいところは、そこまでしていた相手でも、他に好きな相手が出来た途端に、バッサリと切り捨てるところだろう。あの切り替えの早さには頭が下がる。
「……でもさ、余り執着してくる相手だと、ちょっと浮気しただけでも後ろから刺されそうじゃないか。そう思ったら、相手の方から離れてくれて良かったんじゃないか?」
余り慰めにもならないようなセリフを僕は言った。すると相手は恨めしげに僕を見ると
「先輩は、本気で女を好きになった事がないから、そんな事が言えるんや」
とふてくされたように返してきた。やれやれ、と僕は肩をすくめ、暫く放っておく事にした。
「……なんでやろ。みんな僕の事『好きや』『好きや』ゆうて近づいてくるのに、いざ僕が本気になった途端に、離れてくんです」
和樹は泣き言めいた事を言いながら、コーヒーをちびちびと飲んでいた。その時、チリン……という涼しげな音色が彼の耳に入ってきた。目を向けると、坪庭の前の窓際に、陶器の風鈴が飾ってある。青緑の地色に白い朝顔が絵付けされた、見た目にも涼しげなアンテークな風鈴だった。
「先輩、あれ売り物ですか?」
和樹に言われて、僕は目を向けた。
「一応な。一年前に買い取ったんだ。亡くなった旦那さんが大事にしていた風鈴だって。奥さんが再婚するんで、遺品の整理をしていた時、出てきたそうだ」
「……あれ、僕に売ってくれませんか?」
「いいけど……お前に風鈴の音色で涼を楽しむ風流さがあるとは意外だな」
「毎日これだけ暑かったら、涼しくなりそうな物ならなんでもええですよ」
確かに一理ある。こういうものは縁なので、僕は和樹に風鈴を売る事にした。それにしても売れない時は全く売れないのに、いざ売れる時は拍子抜けするくらい呆気なく売れてしまう。本当に縁とは不思議なものだ。
尾形和樹は1LDKのマンションの一室に戻ってくると、汗だくの身体をシャワーで流して、早速、先ほどの風鈴をベッドの天井につり下げた。丁度、エアコンの風の通り道なので、チリン、チリンと中々良い音色を響かせた。『一閑人』の主ではないが、自分には風鈴を飾るような趣味はないのだが、何故か惹かれて購入してしまった。ふられたばかりで情緒不安定だったのかもしれない。衝動買いとはいえ、それ程高い買い物ではないし、多少なりとも涼を感じさせてくれたら、それで良いと思った。
明日も猛暑の中を外回りである。とりあえず寝よう、と彼はエアコンのタイマーをセットして早々に横になった。
夜中にふっと目が醒めた。
エアコンのタイマーが切れたんだろうか、と思ったが、蒸し暑さによる寝苦しさは感じない。むしろエアコンが良く利いている室内にいるような肌寒さすら感じた。それはそれで、おかしいのだ。この時間帯にはエアコンは止まっているはずなのだから。
ふと枕元をみて、彼は目を見開いた。
濡れたような黒髪、陶器のような白い肌。室内に明かりはないが、窓からの外の光でうっすらとわかる白い朝顔の柄の着物。その着物の地色はおそらく青緑。半襟の真紅が、暗くてもわかる白い肌を一層白くひきたたせていた。
最初は14、5才の美しい少女かと思った。が、よく見ると24、5才の大人の女性にも見える。とにかく年齢がわからなかった。彼女は直樹を無言のまま見下ろしており、彼も相手に釘付けになったように見つめていた。が、何故が恐怖心は全く感じなかった。
その少女とも女性ともとれるような彼女は、白い指を伸ばしてそっと彼の頬を撫でた。その手は心地良い冷たさを持っていた。冷たい手を氷のような、と例えるが、氷のような厳しさはなく、むしろよく冷えた水のような、なめらかさを感じた。
「……君、誰?名前は……?」
思わず、そう訊ねた。こんな状況では、少し間の抜けた質問だったかもしれない。彼は答えを求めて訊ねた訳ではなかったが、彼女はうっすらと微笑むと
「……お前が呼びたいように呼ぶとよい」
その声は澄んでいたが、低く落ち着いた響きを持っていた。やがて彼女は和樹の上にゆっくりと倒れ込むと、自分からキスをしてきた。驚いたが、彼はそのまま拒まなかった。彼女の唇は手と同様に、心地良い冷たさを持っていたし、着物越しに抱きしめた彼女身体も、熱帯夜でほてった身体を冷やしてくれるようだったのだ。
朝の光の中で和樹は目を覚まし、上半身を起こした。
寝乱れたベッドの上にいるのは彼一人だった。昨夜の事は夢だったのか、と思ったが、彼女の冷ややかな感触は生々しく残っていた。
身体は重かったが、頭はとても冴えている。そして朝がきたばかりだというのに、早く夜が来て欲しい、と心底から願っていた。
和樹の願いを知ってか知らずが、彼女は毎晩現れた。
「……何で、僕の前に現れたんや?」
チリン、チリンと風鈴の音だけが響いている、薄暗い室内で、彼はそう訊ねた。彼女は、やはりうっすらと微笑むと、彼の胸に手を当てて
「……妾が来たのではない。お前が妾を呼んだのだ」
彼の目をのぞき込みながら、囁くように言った。続けて
「……寂しい、寂しい、そう言って泣いている声が妾を呼んだ」
彼女は口尻を釣り上げる。その笑みはどこかぞっとするものを感じた。彼は目の前の彼女が人ではない事くらい、わかっていた。それでも彼女から感じる心地良い冷ややかさは、不快な暑苦しい夏の夜の中で、彼にほっと息をつかせてくれた。
彼女の冷たい手が、彼の頬を撫でながら
「……案ずるな。……じきに寂しいなどと思わなくなる。……この先もずうっとな……」
彼女は低く歌うような声でそう言った。彼は目を閉じる。このまま目が覚めなくても良いかもしれない……と心のどこかで思っていた。
『一閑人』に思いがけない電話がかかってきたのは、ますます猛暑が厳しさを増しているとしか思えない昼下がりだった。
それは僕が勤めていたデザイン会社の同僚からで、最近尾形和樹の様子がおかしい。日に日に顔色が悪くなっているし、食も細くなっている。営業は体力勝負の仕事なのに。とうとう会社で倒れた、というのだ。
「尾形くんは、あなたを慕ってはったし、ちょっと様子を見て、注意してあげてくれへん?誰の言う事も聞かへんの」
という依頼を受け、僕は一歩外に出ただけでも勝手に汗が噴き出る、蒸し風呂のような空気の中、教えられた病院へと急いだ。
彼は右腕に点滴を受け、ベッドに横になった状態で僕を迎えた。
「……あれ、先輩。わざわざ済みません……。対したこと、ないんですよ。二、三日点滴受けたら、大丈夫やいわれてるんです」
そう言って、彼は笑った。が、僕は声がでなかった。我が目を疑っていたのだ。
顔は青ざめ、目はうつろ。女難の相が出ている、などと冗談めかして思っていたが、今、彼の顔に現れているのは、もっと不吉な相にしか見えなかった。