葛の葉の軸(前編)
灰色の厚い雲に覆われ、空がゴロゴロと鳴り始めた。一雨くるな、と思うと一気に気が滅入ってきた。これでは店内の客は帰りそうにない。
「おい、ヒマ人」
そう思った矢先、ふてぶてしい声が飛んできた。
「……僕は、そういう名前ではありません。青柳先生」
「嫌みったらしく『先生』なんて呼ばないでくれ。実は、買い取ってきてもらいたい物があるんだ」
「先生の気に添うような物はムリですよ。僕が扱っているのは、普段使いの骨董ですから」
「一幅の軸なんだけどな」
「……人の話を聞いてますか?」
「あんたこそ聞いてるのか?俺は客だぞ。お客様は神様だろう?」
「……神様かどうかはともかく。お客様は王様ですが、中には首を切られた王様もいる、っていう名言がありましたね」
「俺にそんな口を利くのは、あんたくらいだよ」
相手は小馬鹿にしたような、どこか冷笑するような表情をした。こういった表情が、嫌みな程、よく似合う男だ。
青柳怜。手の切れそうな文体と冷ややかで端正な容姿で、この時代に、出版すれば必ずベストセラ-になると言われている詩人。
付き合いは、僕がたまたま手がけた、この街のある催し物のポスタ-を彼が見かけ、自分の新しい詩集の装丁のデザインを依頼してきたのか切っ掛けだった。それで彼の詩集を読んでみたのだが、正直好きにはなれなかった。確かに、言葉を選ぶ感性と、事物の本質を突く鋭さは認めざるを得ない。が、それがどこか皮肉めいていて、物事を斜めに見ているように感じた。何より、紡がれる言葉の底に、他責の空気を感じたのだ。悪いのは全て、友人であり両親であり、学校であり政治であり、社会であり世界である、というような。
断ろうかと思った。が、僕の気を変えさせたのは最後を飾っていた詩だった。それは唯一の恋の詩で、持ち前の鋭さを残しつつも刺々しさはなく、その代わりに素直な哀しみが詠まれていた。
もう、君に逢うことはない
そして
僕の罪が消えることもない
という言葉で締められていた。
僕はデザインを二つ程用意して、彼の担当者に見せた。一つは今までのものと余り代わり映えのない、無機質で現代的なもの。もう一つは雨に濡れる山梔子の花をデザインしたものだった。最後の詩で詠まれている女性が愛した花らしかったので。
担当者は山梔子のデザインを見て、眉を顰めた。綺麗すぎる上に女性的だ、と言って。
「私は好きですけど、青柳怜の世界には合いません。一応お見せしますけど」
ところが青柳怜は、その花のデザインを指定してきた。誰よりも僕自身が驚いていた。それから間もなくだったと思う。彼が僕の店にやってきたのは。
「何も難しく考えることはないさ。その軸が譲られた先もわかっているんだ。先方が気味悪がって売っぱらってなければな」
「気味悪い?」
「葛の葉の絵なんだ。一見すると、普通の美人画だけど、ちゃんと白狐のしっぽが描かれてる」
「……それならいっそ、ご自分で交渉されたらどうなんです?」
「雨止んだな」
唐突に彼が言った。坪庭に目を向けると、確かに雨は上がり、雷の音も遠ざかっていた。彼は自分の名刺の裏に何か書き込むと、それをテーブルの上に置いたまま立ち上がった。
「ごちそうさん。それとくれぐれも俺の名前は伏せてくれ」
どこまでも勝手な事を言い、さっさと店を出て行った。僕はテーブルに近づき、その名刺を手に取った。そこには「左京区○○町 早樫真仁」と書かれていた。