色紙絵の中の闇(前編)
5月になると、この街では川の上での納涼床が始まる。
元々は夏の間に涼を楽しむ為のものだったが、最近では5月から9月まで続けられているのだ。
梅雨前のこの時期は、暑さもカラリとしていて、湿気もほとんど無い。川べりの柳の若々しい青が空の蒼に映え、清々しい気持ちになる。
そんな中で「一閑人」に一人の来客が現れた。
「これは……お久しぶりです」
僕はその客に向かって、そう声を掛けた。一年前、ある物をこの店に持ち込んだ女性だった。
「……覚えてはったんですね」
「一度ご来店されたお客様は、忘れません」
「……いっそ忘れてくれてはったら、気楽やったのに」
彼女は自嘲するように笑うと、そう投げやりな口調で言った。そして入口に一番近い席に腰を下ろし、コーヒーをオーダーした「出来れば濃いめにいれて下さい」と付け加えて。
僕がコーヒーを差し出すと、彼女は一口飲んで、眉間に皺を寄せた。
「……入れ直しましょうか?お代は頂きませんよ」
「いいえ、このままで」
そう言って彼女はムリヤリにコーヒーを飲み干した。暫くは口の中が渋そうに、唇を少し動かしていたが
「実は、一年前にこちらに売った色紙絵を返して頂きたいんです」
どこか差し迫ったような表情で、そう言った。
「それは構いませんが……『竹沢醒夢』の絵はかなり高騰しています。昨年は三十万の値段を付けさせて頂きましたが、今は五十万以上はしますよ」
「構いません」
「……お代は、用意されているんですか?」
彼女は俯いた。そして長財布から三万円ほど取り出すと、それをテーブルの上に置き
「……残りは必ずお支払いします。ですから……!」
哀願する、というよりは、追い詰められているような雰囲気。僕も出来る事なら協力したいのだが、いつ支払えるかわからず、手元に三万円しかない以上、首を縦には振れない。
「……この絵は、牧野氏が、ご自分で買い戻す、とおっしゃってました。それまでは、僕も他のお客様には、お売りしませんから」
それが、こちらとしては最大の譲歩である。色紙絵とはいえ、先ほども言ったように、この一年で値段が高騰した画家の作品なのだ。出す所へ出せば、五十万以上の値がつくかもしれない。商売人としては、それは悪魔の誘惑に等しいくらい魅力的な条件なのだ。が、人として、一年前の約束を守りたい、という思いのほうが強い。
「あの人にだけは渡したくないんです」
吐き捨てるように、彼女は早口に言った。そして僕が問い返す間も与えずに
「お願いします!」
そういって頭を下げた。僕は正直困り果ててしまったが、
「……では、貴女に昨年お渡しした三十万をご用意されたら、あの絵をお渡しします」
「その前に、あの人が売って欲しい、とここへ来たら?」
「……お返事しかねます。元々、あの色紙絵は『必ず買い戻すから売らないで欲しい』と牧野氏に頼まれたから、今だにこの店にあるわけですから」
彼女は俯いた。唇を噛み、膝の上に置かれた両手を強く握りしめたまま。そして荒っぽく立ち上がると、テーブルの上にコーヒーの代金を置いて、何も言わずに店を出て行った。
たった一年で、あんなに変わってしまうのか、と僕は思った。
一年前、僕は青柳先生の紹介で、山口県に住む、元大地主の資産家の家を訪ねた。何でも青柳先生とは海外で海釣りをしている時に知り合い、意気投合して以来の釣り仲間だそうだ。その人の先々代が、萩焼の収集をしていたらしく、それをいくつか売りたい、との事で、僕に白羽の矢が立った。萩焼は今でも茶人に人気のある焼物で、馴染みの茶人の先生からも、良い萩焼の茶碗が手に入ったら是非、と頼まれていた。やはり地元の人だけに、萩焼に思い入れを持っていた方だったらしく、そのコレクションは見応えのあるものだった。僕はは景色の良い茶碗を二つ購入させてもらった。
基本的に遠出をすることがあまりないので、久々に出かけるとクタクタになる。僕は茶碗を店に置いてから帰宅しようと「一閑人」に立ち寄った。すると、若い女性が、鍵の掛かった入口の前に立っていたのだ。紙袋を大事そうに抱えながら。彼女は僕に目を止めると
「このお店の方ですか?」
咳き込むように、そう訊ねてきた。僕が返事をしないうちに
「あの、是非買うて頂きたい物があるんです」
切実な願いを訴えるような声で、そう言った。とりあえず僕は店の中へ入るように促し、コーヒーを差し出した。いつから店の前にいたのか訊ねると、昼過ぎからずっと待っていた、という。この時、すでに夕方の五時を回っていた。一応、入口には二日間休業する旨を書いた張り紙をはっていたのだし、もし今日僕がここへ来なかったら、どうするつもりだったのか、聞いてみると。
「明日、朝一から来るつもりでした」
「他のお店に行こうとは思わなかったんですか?」
「他の所は、なんや入りにくうて……」
その一途さに感心しつつも、多少は呆れてしまっていた。そんなムチャな事をする彼女は「伊原由依」と名乗った。
「それで、お売りになりたい、というのは?」
そう訊ねると、彼女は大事そうに抱えていた紙袋から、薄い箱を取り出した。その中には古びた額縁におさまった色紙絵。僕は目を見開いた。
「これ……まさか『竹沢醒夢』ですか?」
思わず声を大きくして、そう訊ねた。『竹沢醒夢』は昭和初期に活躍した日本画家だが、作品の殆どが太平洋戦争で焼失し、現存するのはわずかに数点という幻の画家と呼ばれる人である。そして、この時は既に忘れられた存在でもあった。彼は主に美人画を描いたが、彼の描く女は美しい以上に艶めかしいと言われた。描いた題材も、道成寺の清姫、源氏物語の六条御息所、玉藻御前、実存した人物では藤原薬子、藤原璋子、中国の妲己、西施と様々だったが、共通して言えるのは『魔性の女』を好んだという事だ。そのせいかわからないが、画家自身も数々の女性遍歴を重ねた男でもあった。
「竹沢醒夢が、この街に三年ほど下宿していた事はご存じですか?」
「ええ、聞いた事があります」
「私の母の大叔母が、醒夢と恋人同士やったそうです。結局、周囲から猛反対されて別れたそうですけど。その人はずっと独身を通して、34才で亡くなりました。この絵のモデルは、母の大叔母やそうです」
彼女にとっては曾お祖母さんの姉妹に当たる人、という事になるのだろうか。世間というのは広いようで、やはり狭いのだ、と僕は感心しながら、その色紙絵を見た。
恋人へのプレゼントとして描いたのだろう。絵の女性は、醒夢の描く美人画に比べると、艶めかしさはそれ程でもなく、むしろ清らかな美しさを湛えていた。背後には春の鮮やかな青柳が細かく丁寧に描かれ、彼女のすっきりとした佇まいをより際立たせていた。
「これ、いくらで買うてもらえますか?」
「忘れられたとはいえ、幻と呼ばれる画家ですからね。色紙絵でも……三十万くらいでしょうか?でも、せっかくなのですから大事に手元に置かれていてはいかがですか?」
彼女はかぶりを振った。そして少し照れくさそうに話し始めた。
彼女には画家を目指している『牧野公郁』という男性と付き合っている。とにかく絵を描く事しか出来ないような人なのだが、とても才能があるし、彼女自身もそれを信じて疑わない。彼には存分に絵を描いてもらうために、彼女が一切の面倒を見ているらしく、この絵も新しい画材を購入するための資金にしたいのだ、という。
それは思いっきりヒモを養っているのではないか、と僕は正直なところ思った。が、彼女の明るい表情や、輝かしい未来を信じている純真さは、彼女をより輝かせているように見えた。
あいにく今日は高い買い物をしてきたばかりである。もしよければ明日、もう一度来て欲しい、その時に代金をお支払いする、と僕は伝えた。
そうすると、彼女の表情は晴れ渡った空のように輝いた。
「おおきに、有難うございます!明日、また来させて頂きます」
思いっきり頭を下げると、彼女は跳ねるような足取りで店を出て行った。
彼女の消えた後は、薄暗い店が、一層暗く感じた。そのくらい明るい空気を醸し出す女性だった。
翌日現れた彼女は、一人ではなかった。
こんな可愛らしい女性のヒモなんてしているのは、どんな悪党なのかと思っていたのだが、その相手は意外にも大人しそうでどこか神経質そうだった。29才と聞いたが、24才の彼女と同い年くらいにしか見えなかった。
「由依、やっぱ売るのやめへん?俺、今使うてる道具でかまへんよ。道具変えたから、ええ作品が描けるってもんでもないやろ」
真理である。が、彼女のほうが熱心だった。
「何言うてはるの!私、公郁には出来るだけ一流のモン使うてほしいねん」
「……ほなら、俺、必ずこの絵、買い取りに来ます。それまで、この店で預かっといてもらえますか?」
彼は僕に向かって、そう言った。この二人を見ていると、僕は何だか幸せな気分になった。それで、その商売にならないような提案を快諾してしまったのだった。
あれから一年。あの二人にいったい何があったのだろう。
ぼくは久しぶりに、醒夢の色紙絵を出してみた。売るつもりのない物なので、店頭に出す事は一度もなかったのだが、その絵を見て僕は目を見開いた。
色紙の中の女性は、一年前に見た時よりも、やや頬が痩け、肌の色はどこか青ざめて、疲れたような表情をしているように見えたのだ。
久々の「一閑人奇談」の更新になりました。後編もできるだけ早く掲載したいと思っています。