天上の境界(前編)
自宅から「一閑人」へ向かう途中に、山茶花の生け垣の前を通る。冬の底冷えの中、赤い花の色は目に鮮やかだ。椿が花ごと落ちるのに対し、山茶花は花びらが散るので、アスファルトの上にパラパラと落ちている。その様を寂びた風情と見るか、汚いと見るかは人それぞれだろう。
店でメールを開いてみると、ある依頼が舞い込んでいた。骨董好きの父親が亡くなったので、収集した物の査定をしてもらいたい、というものだ。骨董好きの人口は結構いると思うが、その中に目利きはというと、おそらくは一握りだろう。そして骨董好きの家族が、必ずしも骨董好きとは限らない。大抵はあんなガラクタにお金をかけて、と渋い顔をしているか、白い目で見ているかだ。
近くに骨董店が無いのだとしても、これだけネットが普及している時代である。オークションにかけて手っ取り早く処分するという方法だってあるが、やはり微かな期待をかけて、僕のような所に依頼が来る。もしかしたら、掘り出し物が紛れているかもしれない、という期待だ。
骨董市やネットオークションで名品を安価で手に入れた、という話は無いわけではない。が、それは宝くじに当たるのと同じくらい稀である。
依頼人の父親は、どうやら仏教美術の収集をしていたようだ。
添付されていたファイルを開くと、銅製の不動明王、普賢菩薩、観音菩薩、古い鳴物、銀の独鈷、涅槃図の軸と、余り統一性を感じない収集品だ。写真で見る限りでは、それほど心が惹かれる物はない。あいにく仏教美術は取り扱いをしておりませんので、と断りメールを送ろうかと思いながら、最後のファイルを開いた時。
手が止まった。
それは円空の月光菩薩に似た木彫りの像。有名な仏師が彫った物ではないだろうが、風情が良い。木の佇まいが良い、と言うべきだろうか。
これは月光菩薩だと思うが、対になっている日光菩薩もあるのですか、との質問メールを送ってみた。すると一時間後に返事が届き、この仏様は三十年程前に、もともと庭にあったケヤキの樹を伐った時、その一部から彫った物で、日光菩薩もあったのだが、それは樹を伐ってくれた人へお礼として渡した。この仏像が切っ掛けとなって、父親は仏教美術の収集を始めたのだ、という。
さすがにメールのやりとりだけでは取引を決めたりはしない。僕は相手と面会の日時を決め、実物を見てから買い取りを決める、と返事をした。
実物はメールのファイルで見たより小ぶりで20㎝くらいだが、木の味が出ていて良い物だった。三十年程前に作成されたと聞いていたが、木自体は随分古いものだったのだろう。木目をみればわかる。僕は、その仏像だけを買い取る事に決めた。遺族の人はがっかりしているようだったが。
久々に私鉄に乗ったのだが、平日の昼間だというのに人が多い。
この時期は梅も咲いていないし、これといった催し物も無いのに、と駅のホームに降りると、ある光景が目に入った。
ホームから改札口のある階へ行くエレベーターの前に車いすの若い女性がいた。が、その中は若い着飾った女子の集団が賑やかに話ながら場所を占めている。とても車いす一台が入れるスペースはない。その女性は諦めて、彼女達が行った後でエレベーターを使おうとしているようだった。譲ってあげれば良いのに、そう思った時。
「あんたら、降りたらどうや。階段使えばええやろ」
よく通る声が飛んできた。驚いて目を向けると、中背の、目の鋭い男性が車いすの女性の後ろで仁王立ちしていた。
「何あれ、キモッ」
「感じ悪~」
「いこ、いこ」
中の集団は口々にそう言うと、「閉」のボタンを押したのだろう。ドアが閉じてエレベーターはゆっくりと上昇し始めた。
「あーいうのに限って、ダイエットがどうやこうや言ってはるんや。身体使うたほうが、よっぽど痩せるやろ」
他人事ながら、男性は腹立たしそうに呟いた。
「有難うございます。けど、気い使わんといて下さい」
彼女は俯いたまま、そう返した。男性が口を開こうとした時
「ああいうセリフは、思っていても中々口に出せないんですよね。尊敬します」
そう僕は口を挟んだ。
「当たり前のこと言っただけやし。そんな大げさなことやない」
意思の強そうな、健康そうな肌の色をした男性。今時、ちょっと珍しいタイプかもしれない。僕は女性に向かって
「どちらまで行かれるんですか?エレベーターを使えば改札は出られますけど、地上に出るにはもう1階上に上がらないといけないでしょう?この駅の近くには階段くらいしかないですし」
「ほんとは、病院に行かなきゃいけないんです。リハビリで。……でも……」
そう言って言葉を濁らせた彼女に
「まあ、サボりたい時かてあるわ。俺もしょっちゅう学校サボってたし」
男性はケロリとして、そう言葉を紡いだ。とりあえず僕達は改札を出て、大きな通りに面した入口に出ようという事になった。この駅は私鉄と地下鉄が交差するので、人が多く、四方に流れていく。
「ほら」
彼はそう言うと、彼女の前に背を向けてかがみ込んだ。彼女はキョトンとして、厚い背中を見下ろしていた。彼は振り返ると
「おぶって上まで上がった方が早いやろ。はよしいや。人多いし、モタモタしてたら周りにも迷惑やで」
妙に有無を言わせぬ口調に気押されたように、彼女は言われるまま、彼の背にすがった。彼は軽々と立ち上がると、僕を見て
「すんませんけど、車いす頼みますわ」
と、さっさと歩いて行く。僕も勿論、否を唱える間も無かった。人一人おぶって、彼は石段を軽々と上っていく。かえってイスを抱えている僕の方が、ゼイゼイと息を荒くしていた始末だ。
「で……どこに……行く予定……ですか?」
肩で息をしながら、僕は訊ねた。この時期は昼でもまだ寒い。イスの上で白いストールに身を包みながら、彼女は
「あまり人目のない場所、知りません?」
「……なら、僕の店に来ませんか?骨董屋ですが、カフェも併設しています。ただ、地下鉄を使ったほうが早いですけど」
「歩いて行ける距離なら、平気です」
「ほな行こか」
当然のように彼は車いすを押して歩き始める。彼女に断るスキも与えないように。彼女も断るタイミングを逃したのか「すみません」とだけ言った。
「貴方は何をしている人ですか?」
歩く道すがら、そんな話になった。平日の昼間に普段着で歩いている人である。平日が休みの会社もあるが、彼は「会社員」には見えなかった。
「空師です」
「ソラシ?」
「まだ半人前ですけど。一応仕事で来ましてん。これから帰る所やったけど」
「あの、それなら……」
「もう帰るだけやし、気にせんでええよ。それより、いつから車いすなん?」
普通の感覚なら聞きづらい事をズバズバと聞いてくる。側で聞いている僕のほうがハラハラしてしまうくらいだ。が、彼女はあっさりと「二年前に交通事故で……」と答えた。変に同情したり憐れんだりしているような感じではないので、かえって答えやすいのかもしれない。
「やっぱり車は怖いもんなん?今でも」
「最初は音を聞いただけでも怖かったけど、今は平気です」
そう言いつつも、背後から大きな音を立てる車には不安そうに何度も振り返っていた。
「リハビリって、あの駅の近くなん?」
彼女は地下鉄沿線の大きな病院の名を告げた。いつもは母親が車で送ってくれるのだが、母方の祖父が体調を崩していて、その世話に行っているとのことだった。
彼女を店まで送った彼に、「コーヒーでも」と誘ったのだが、彼はそれを断り、代わりに名刺を僕達に渡して帰って行った。そこには『日笠 巧』と記されていた。
「骨董屋さんて初めて来ましたけど、おもろいですね。もっと高価なものばかり並んでると思いました」
「僕は普段使いの骨董しか扱わないんです。『物』は人が使ってこそ価値があると思っていますので」
そう言って、今日預かったばかりの月光菩薩を取り出した。彼女はそれにふと目を止めて
「仏様……ですか?」
「ええ。月光菩薩です。本当は日光菩薩と対になっているのですが、これ一体しか手に入りませんでした」
「私、彫刻とか仏像とかって、ようわからないんですけど……優しい静かなお顔をしてはりますね」
そう言って彼女はそれをじっと見つめていたが、これは幾らなのか、今は手持ちがないが、母親に頼んで届けてもらうので、取り置きしてもらえないか、とたずねてきた。
「私が事故に遭うた時、5才くらいの女の子も巻き込まれたんです。意識が遠なってく中で、その子の母親の泣き叫ぶ声が聞こえてました……目が覚めた時、その事故の被害者は同じ病院に搬送されてはったので、その子はどうなったんかたずねたんです。そしたら助からんかった、て聞いて……
名前も何も知らへんけど、せめてこの仏様に手えを合わせようかと思て」
「……貴女が悪いわけではないでしょう?」
「でも、同じ目に遭うて、私は助かったけど、まだ小さかったあの子は……て思てしまうんです。それに、あの母親の泣き声、今でも耳に残ってて……」
僕は彼女が次にリハビリで来る時に、その病院へ仏像を持って伺うと約束した。帰る道すがら、彼女は『和泉千晶』と名乗り、地下鉄の駅員が手を貸して、ホームへ降りるエレベーターの中へ消えたのを見届けてから、店に戻ると。
明かり一つない室内に、青みを帯びた白銀の光が浮かんでいる。思わず電気をつけると、それはあの月光菩薩だった。