錦繍の衣(後編)
車窓の風景は、電車が進むにつれ、どんどん寂しくなっていく。雲の低い、灰色の空は重く、すでに冬の装いだ。遠くの山並みの頂上にはうっすらと白い雪が積もっていた。まさか宮脇氏と二人、友禅を抱えて電車に乗る事になるとは思わなかった。
「彼女」は毎日姿を現して、おしゃべりをした。「彼女」の話はこれといった事件が起こるわけでもなく、ささやかな日常の事柄だった。今日は夕焼けが綺麗だっただの、友達と口ゲンカをしてしまっただの、近所で飼われている猫が仔猫を産んで、家で一匹引き取る事になったなど。そのうち、同級生の友人が隣の男子校の生徒から恋文を渡されたとか、別の友人が好きな相手の為に毎日弁当を作ってくるのだか、結局いつも渡せずに、友達皆で食べている、といった話が多くなった。いつの時代も女の子は恋バナが好きなのだろう。
日一日と経つごとに、幼かった少女は年頃の娘らしくなり、鈴の音を転がすようにあどけなかった声は、優しく落ち着いた声へと変わっていった。だが「まさるちゃん」と呼ぶ声の響きだけは変わらなかった。
ある日、彼女は猫を膝の上にのせ、丸くなった背を撫でながら、ぼんやりとしていた。おそらく「どうした」等の声を掛けられたのだろう。我に返ったように僕に目を向け、すぐに視線を猫の上に落とすと
「……今日なあ、ヒロ子ちゃんのお家に行ったんや。あの子のお家、下宿屋さんしてはるやろ?居間に丁度、下宿してはる大学生がいはってな。いろいろお話したんや。……東京弁は落ち着いた、ええ響きやなあ。何や聞きほれてしもうたわ」
それからというもの彼女の話は「東京弁の大学生」に終始した。彼について語る時、彼女の頬は上気して表情は生き生きと輝いていた。声も弾むように明るく、全身で喜びを表現していた。
彼女を間近で見ていた僕は、少なからず複雑な思いがした。おそらく彼女を見ていた「彼」も同じ思いをしていたのだろう。その思いが僕に伝わっていたのかもしれない。
だが、明るかった彼女の表情が、うつろになった。どこか惚けたように猫を撫でながら
「……あの人なあ、アメリカに留学するんやて……」
ぽつり、とそう呟いた。が、次の瞬間、無理に笑顔を浮かべると
「すごいなあ。海の向こうに行かはるんやで。そこで勉強するんやて。賢い人はちゃうなあ」
そう言ったきり、口を閉ざしてしまった。そして、それきり「東京弁の大学生」の話をパタリとしなくなった。
それからどのくらい後なのだろう。
次に現れた彼女は、真っ先に驚いた表情を僕に向けた。おそらく「彼」がかなり血相を変えて現れたのだろう。
「どないしはったん?そんな怖い顔して
……そうそう、聞いた?紅子ちゃん、お嫁にいかはるんやて。それもなあ、お相手、踊りも芝居もものすごう上手いけど、もともと歌舞伎役者のお家の人やないんやて。紅子ちゃんは、それこそ名跡継がはる人にも嫁げる家のお嬢さんやん?実際、そういう話もあったそうやで。けどなあ『うちは名前と結婚する気はあらへん。この人の才能に自分を賭ける事にしたんや』って。……すごいなあ、紅子ちゃんは」
羨ましそうにそう言った。それに対して、「彼」が何か言ったのだろう。それを黙って聞いていたが
「何で、そんなに怒らはるのん?お父さんも、お母ちゃんも喜んではるんやで?北陸の土地持ちの人に嫁げるんやもん。有り難い話やんか。怒ってはるのは、まさるちゃんだけやわ」
そんな他人事のような言葉に、畳みかけるるように何か言ったのだろう。一瞬、俯いていた彼女の表情が泣き出しそうに動いた。が、深い嘆息を漏らして、顔を上げた彼女の表情は穏やかだった。そして
「うちなあ、お母ちゃんがお父さんと一緒になってくれはって、ほんまに良かった、思てん。だって、こうしてまさるちゃんと姉弟になれたやろ?」
そう言って微笑むと
「……おおきに。うちの為に、怒ってくれて」
優しく、そう告げた。
翌日、姿を現した彼女は雪のように真っ白な白無垢姿だった。彼女はふとこちらを振り返ると、柔らかな微笑を浮かべた。その口紅の赤だけが、真っ白な姿の中で浮いているように見えた。
その時、ふと思ったのだ。彼女には、こんな鮮やかな明るい赤よりも、落ち着いた深い赤のほうが似合うのではないか。あの友禅の地色の赤のような……
年末のこの街では、恒例の行事がある。歌舞伎の顔見世だ。
僕と宮脇氏は、顔見世が催される由緒ある古い建物の近くカフェで人を待っていた。
「……あの友禅はやっぱり……」
「まあ、お待ち下さい。すぐにわかりますから」
宮脇氏の言葉を制して、僕は入口に目を向けた。
約束の時間の五分前に、待ち人は現れた。濃い紫の色無地に金糸の帯。親に逆らい、相手に自分を賭けると言い切った、気丈な美しさの面影が、まだ色濃く残っている。
「お待たせしました」
「お忙しい中、お時間を頂きまして、有難うございます」
立ち上がって、僕達は頭を下げた。彼女はまず宮脇氏にお悔やみの言葉を告げてから腰を下ろすと
「懐かしい名前を聞いて、少し昔話がしたくなったんですよ」
この街のイントネーションを残しつつも、標準語で言葉を紡いだ。ご主人は若い頃に既に居を東京に移しているのだ。
「宮脇克さんのお姉さんとは、子供の頃から親しくされていて、高等学校も同期とか……」
「ええ。よくお互いの家を行き来しておりましたよ」
「実は、宮脇克氏がお姉さんの為に描いた友禅が見つかったんです」
その一言に、隣の宮脇氏は驚いたような視線を向けた。が、僕はそれに気づかないふりをして、言葉を続けた。
「だだ、宮脇氏とお姉さんの間では、深い溝があったのか行き来がなかったようなんです。おそらくはお姉さんの結婚が原因だと思われるのですが、事情を知る人は少なくなり、ご本人も、家族に何も話していませんでした」
「……二人のお父さん、こちらにいる方には曾お祖父さんにあたる方は、いわゆる野心家でしてね。お店を大きくして、手を広げてたんですけど、野心家の人が商売上手とは限りませんでしょう?大きな借金こさえてしまって……そんな時、顧客さんで北陸の土地持ちの人が龍子ちゃんを後妻にもらいたい、言ってきたんですよ。そのかわり借金の肩代わりをするとおっしゃって」
「……龍子さんというんですか。彼女は納得したんですか?」
「あの子は孝行娘でしたからね。それに、あの頃はそうそう親に逆らえるものでもありませんし」
彼女は午後の部が始まるから、とそこで席を立った。宮脇氏は信じられない、といった表情だった。
「ほんまに、祖父のお姉さんのものなんですか?」
「お姉さんの名前、龍子さんだったんですね。聞いておけば良かったですよ」
「なんでですか?」
「秋の女神が龍田姫という名前なんですよ。お祖父さんはそれにかけて、あの友禅を描いたんでしょう、きっと」
北陸の、弔問に訪れた娘さんの住所を頼りに、僕達は見知らぬ街に降り立った。
まだ紅葉を残しているあの街と比べると、枝を広げる裸木は寒々と見えた。いっそ雪化粧でもしたほうが、まだ明るく見えるかもしれない。妙に軽快なクリスマスソングが流れる中、僕達はタクシーを拾って目的の家へと向かった。
前もって連絡した時、やはり義母は体調がすぐれないので、娘の私で良ければ対応させて頂きます、との返事をもらっていた。かつて土地持ちの裕福な家だった、というだけあり、冠木門のある古いおおきな木造の家だった。
「遠い所、ようこそおこし下さいました」
お茶とお茶菓子を出して相手はそう言って頭を下げた。彼女は龍子さんとは血の繋がりはないらしいが、とても可愛がってもらった、と話した。宮脇氏は畳紙に包んで、大事に持って来た着物を彼女に見せた。
「僕の祖父の克が、お姉さんのために作ったものです」
相手はその着物をじっと見つめていた
「このために、わざわざ?」
「祖父は、ずっと大事に持ってはりました。いつか、龍子さんにお渡ししたかったからやと思います。……結局、本人からお渡しする事は、叶いませんでしたけど……」
「……もしよろしければ、貴方から直接、義母に渡してもらえませんか?」
そう言うと彼女は立ち上がり、僕達を離れの方へと案内した。てっきり入院でもしているのかと思っていたので、僕達は顔を見合わせていると、どこからか歌声が聞こえてきた。それは僕達が暮らす街の通りの名をうたった童歌だった。
案内された離れの縁側に、彼女はちょこんと正座をして小さな背中をこちらに向けて座っていた。膝の上には三毛猫が丸くなっている。その背を撫でながら、繰り返し、童歌を歌い続けていた。その声は、まるで惚けた子供のようだった。
思わず僕達は娘さんを見つめた。彼女は切なそうに頷く。
その時、冷たい風が吹いて、庭の蝋梅の枝を揺らせた。ぴたり、と彼女は歌うのを止めると
「風が冷たならはったねえ、もうおもてに出はる時は、温かくせえへんとあかんえ、まさるちゃん」
夢を見るような声で、彼女は呟いた。だが、その「まさるちゃん」と呼ぶ声の響きは変わっていなかった。
「……ああやって、いつも『まさるちゃん』に話しかけているんですよ」
娘さんは泣き笑いのような表情を浮かべた。思わず胸をつかれて、僕が再び彼女に目を向けた時。
宮脇氏が彼女の方へと歩いて行った。そして友禅を広げると、龍子さんの細い小さな肩にそっとかけた。
「……貴女のための着物です。渡すのが、えろう遅なってしもうて、すみませんでした」
彼女は振り返らなかった。ただ、痩せた枯れ枝のような手が、そっと着物を撫でた。絹の手触りを確かめるかのように。
冬の早い夜の気配を感じさせる薄暗い室内に、友禅の赤の黄色の模様はどこまでも暖かく、目に鮮やかに映った。
近日中に、が結局、月をまたいでしまいました。せめて11月中に掲載したかったのですが……