俤《おもかげ》を呼ぶ香(後編)
暗い室内で、私は「紅雪」を焚いた。彼岸花の香炉から、白い絹のような煙が、揺れたり円を描くように曲がったりしながら上っていく。淡い香りと共に。
彼から病状を伝えられてから三日後。私は再び病室を訪れた。彼は私を見て、驚いたように目を見開いた。
「そろそろ持って来た本が読み終わったんじゃないかと思って」
そう言って、私はヴァン・ダインの「グリーン家殺人事件」と「僧正殺人事件」をバッグから取り出した。
「……有難う。この厚さでも一日で読み終えてしまうんですよ」
それからも私は、残業で遅くなって、面会時間に間に合わない時以外は、殆ど毎日のように彼を訪ねた。彼は何故来るんだ、と問わなかった。問われたところで、私にも答えようがなかったが。
5月の半ば頃、彼に誘われて病院の屋上へ行った。気温はかなり高くなったが、梅雨入り前の空気はからりとして風が心地良かった。
「この街は山が近くに見えるから良いですね」
屋上のベンチに座って、彼は日差しの下に広がる風景を眺めながら言った。
「時々、ここに来て外を見ているんです。僕はもともと野育ちですから、狭い場所に閉じ込められていると息が詰まるんですよ」
「……実家に帰ろうとは思わないんですか?」
恐る恐る、私は訊ねた。慣れた環境で過ごす方が、身体には良いんじゃないかと思ったからだ。彼は黙り込んでいたが
「この街は、自分の意思で選んで住み続けていますけど、一つだけ、いつまでたっても慣れないものがあるんです」
「慣れないもの?」
「雪のない冬です」
「……でも、雪なら……」
「この街でも雪は降ります。でも、僕の見たい風景じゃない」
そう呟くと、彼は遠くを見るような目をした。
「ここの冬の夜は、ひたすら暗いでしょう?でも雪国の夜は違う。雪明かりで、周囲が青暗いんです。電灯が無い場所でも、遠くの山並みがはっきりわかる。雪は音を飲み込むから、辺りは耳鳴りが聞こえる程に静かで……『静』という漢字には『青』の字が入ってますけど、僕はこの字を作った人は雪の夜と知っていたんじゃないかと思っているんですよ。静かな、青い夜。そして朝。日の光を浴びて、雪がまぶしいくらい輝く白銀の世界。汚れなく美しいけれど、酷寒の厳しい環境が作り出す清冽な美です。
……毎日雪を眺めていると、もう見たく無い、うんざりだ、と思うんですけどね」
私も十才まで、その地で暮らしていたけれど、あまり印象に残っていない。けれど、そんなに見たいのなら見せたい、そう思ったし、私自身も一緒に見てみたいと思った。けれど、それは可能なのだろうか?
「きっと見れる」
そう伝えるのは簡単だけれど、そんなおざなりな言葉を彼は望んでいるのだろうか。かえって彼をむなしい気持ちにさせるだけではないのか?
そんな事を考えていると、私は何も言えなくなった。ただ、並んで目の前に広がる新緑の山を見つめていた。
梅雨の季節に入ると、彼は初めて病室を訪れた頃と比べると、かなり痩せてきていた。顔の頬のあたりや、肩のあたりの肉が薄くなったような気がした。そんな時、彼が突然
「由真さんの会社は休みが取れるんですか?」
「有給はたまってますけど」
「城崎に行きませんか?」
「……は?」
「シーズンオフの平日なら、良い宿も手頃に泊まれるみたいなんですよ」
彼は携帯画面を見ながら、そう言った。私は金魚のように口をパクパクさせた。普通に聞いても驚く台詞だと思うが、こんな状況で旅行なんて無理に決まっている、と当然の事を考えたのだ。その私の考えを読んだように。
「大丈夫です。外泊許可は、主治医からもらいましたから」
私は彼の主治医の所と訪れて、どういう事なのかと訊ねた。年齢がいくつなのかわらないが、童顔でまだ学校に通っているようにしか見えない主治医は
「ご本人の強いご希望です。身体が動くうちにやりたい事がある、と。できるだけ本人の望むようにさせてあげて下さい。……でも」
相手はそう言って表情を改めると
「できるだけ、目を離さないようにして下さい。落ち着いて見えるからといって、冷静であるとは限りません」
翌週、彼は三日間の外泊許可をもらって、一度マンションの部屋に戻る事になった。心配だったので、私も合わせて有給をもらった。タクシーで部屋に戻る途中、彼は嬉しそうに車窓の風景を眺めていた。病室の変わりばえのしない窓からの眺めに飽き飽きしていたのだろう。
マンションの前で車を降りると、彼はここで良い、と言った。
「……本当に大丈夫ですか?何なら私、ずっと付き添いましょうか?」
「由真さんは、けっこう大胆な事を言いますね」
「そういう意味じゃなくて!」
彼は笑った。けれど、その笑顔はどこか弱々しいものだった。
「大丈夫ですよ。やっと静かに眠れるんです。実は入院中、隣のベッドの人のいびきがすごくて、耳栓無しでは眠れなかったんですよ。じゃあ明日、駅で正午12時に」
とりあえず私はサンドイッチを差し入れして、その日は帰った。が、病気の人をたった一人にして、本当に良かったんだろうか。でも、心配だからといって余り張り付いていると、彼を信用していないように思われるだろうし、と悶々考え続けていた。なので、翌日、駅に彼の姿を見つけた時は、心底ホッとしたのだ。
城崎へは、この街から特急一本、一時間程度で行ける。
「やりたい事って、城崎に行く事ですか?やっぱり志賀直哉の『城崎にて』の影響で?」
「それもありますが、今まで書き溜めていた小説を全部処分したかったんです」
「え!?どうして……」
「駄文ばかりですから。それに、仮に僕が死んだ後で認められたところで、今の僕には何の意味もない」
そう言うと、彼は流れる風景に目をむけた。
「特急一本でいけるなら、もっと早く行っておけば良かった。いつでもいける、とどこかでそう思っていたんでしょうね」
城崎はあいにくの雨で、とても外湯巡りを楽しめる雰囲気ではなかった。私たちはタクシーに乗り込み、予約していた宿に落ち着いた。宿泊する宿はいくつもの温泉風呂があり、広い庭園もあったので、とりあえず宿の中で充分に時間は潰せそうだった。
彼は久々の遠出で嬉しそうにしていた。傍目には病気の人とは気づかれない程。だが、温泉に入って夕食の時間になった頃、どこか辛そうな様子になったので、私は宿の人に頼んで早めに布団の用意をお願いした。
仲居さんが用意を済ませて下がろうとした時、
「この部屋に最初に入った時、良い香りがしましたけど、何の香りですか?」
不意に彼がそう訊ねた。
「翠玉堂の『紅雪』いうお香です。取り寄せて、つこうてます」
「また焚いてもらえませんか?」
仲居さんが下がった後で、彼はバッグから処方箋を取り出した。私の見ている前で慣れたように沢山の薬を飲み干すと
「自分をごまかすための薬ですよ」
そう言って笑った。
仲居さんが香を焚いて下がると
「気に入ったんですか?この香り」
横になっている彼の枕元で、そう訊ねた。柔らかな甘さ、軽やかさ。そして、どこか冷やりとする匂い。
「由真さんが使っている香水に似てませんか?最近はあまり使っていないけど」
驚いて私は彼を見つめた。確かに病院へ行くときは香水は使わなかった。香りのするものは避けた方が良いんじゃないかと思ったからだ。彼はジャケットを持って来てくれないか、と言い、私はハンガーに掛けていたそれを持ってきて手渡した。彼は内ポケットから包装された袋を取り出して、私に「お礼」だと言って渡してくれた。中に入っていたのはバラのデザインのピンクゴールドのピアスだった。
「……由真さん、出勤する時、いつもピアスを変えていたけど、ピンクゴールドのピアスはよく使っていたから、好きなのかと思ったんです」
「……」
「たまに、寝坊してピアスをつけてないし、髪も半乾きのままで地下鉄に乗ってましたよね」
「……どうして……」
「別にストーカーしていたわけじゃないですよ。ただ、挨拶をするようになる前から、ずっと見ていたんです」
「……もっと早く、声を掛けてくれたらよかったのに……」
「城崎にいつでも行ける、そう思っていたように、いつでも声は掛けられる、そう思っていたのかな……どうして、あんなに時間は無限にあると思っていたんでしょうね……」
私は思わず、彼の痩せた肩に顔を埋めた。彼の細くなった手が、ためらいながらもそっと私の肩を撫でた。
城崎から戻った後、彼の容態は悪化してしまった。見舞いにいっても薬の作用か、眠っている事の方が多くなった。完全看護の病院だったとはいえ、彼の両親は数える程しか来ず、来ても弱っていく息子の姿を見るのは耐えられないように、すぐに帰っていった。
三月、と言われた七月は過ぎたが、彼は八月の末に息を引き取った。かけつけた母親は、私がいるから息子は転院しなかったのだ、と詰った。こんなに苦しい時でも、人は他人を責めることができるのだ、と思った。
香炉を目の前に置き、うつぶせになりながら、私は考えていた。
彼の母親が詰るのも仕方ない、心のどこかでそう思っていた。何故なら、私は一度も泣かなかったから。彼が亡くなってから、涙一つ零れなかったのだ。
今でもわからない。
私は、彼をどう思っていたのだろう?彼がいなくなってしまってから、哀しいというより、心の中に穴が空いたような空虚感しかない。そして彼は、実際のところ私をどう思っていたのだろう?はっきりした言葉をもらった訳ではない。私自身、はっきりしが言葉を告げた訳でもないけれど。
香りが薄くなってきた。ふと残り香の中に、違う香りが鼻をついた。はっとした。覚えのある香り。その香りの混じった温かな空気が、そっと私を包み込んだ。懐かしい、そう思える感触。
私が彼をどう思っていたのか、私自身はっきりとはわからない。何故、彼の病室に通い続けたのか、その理由が答えられないように。けれど、胸の奥がじわじわと温かくなる感覚を、逆に身体がキリキリとしめつけらるような痛みを、あの人以上に感じた人はいなかった。
「……一緒に……」
思わず口から言葉が零れた。
「一緒に、逝きたい……」
そう呟いた瞬間、温かな感触がすっと離れた。はっと我に返った時、香りも消え失せ、暗い室内に火の消えた香炉だけが目の前にあった。
なにかが膝の上に落ちた。頬に触れると、自分の涙だった。あとからあとから、まるで堰を切ったように涙が溢れてきた。止めたくても止まらない。自分の意思で感情は止められないのだという事を初めて知った。私はひたすら泣き続けた。このまま涙が止まらないんじゃないか、そう思うくらいに。
風が強くなり虫の声が聞こえてくるようになった。
ふと僕は坪庭に目を向け、意外なものを見つけた。赤い彼岸花だった。それは紅葉にはまだ早い、寂しい風景の中で炎のように鮮やかに見えた。
あの彼岸花の香炉を購入した彼女はどうしているのだろう。「悲しい思い出」が花言葉だと言っていたので、僕も少し調べてみた。いくつか言葉があり「あきらめ」なんてものもあったが、中には「想うはあなた一人」とか「再会」というものもあった。
逢いたい人に逢えたのだろうか。
冷たくなった風の中で揺れる花を見つめながら、僕はそう思った。
今回は一閑人の主の出番が極端に少ない話になってしまいました。次回はちゃんとメインで書きたいと思います。一応、主人公ですので……