影絵の記憶(後編)
行灯照明は毎晩、店を閉める間際の同じ時間に、自然と灯りが点り影絵を映し出した。
若い一組の夫婦は何をするのも一緒だった。女は着物姿で客の対応をするようになり、男は壊れた建具の修理や古い物を見つけてそれを再利用したり、と二人三脚で切り盛りしている様子が見てとれた。そのかいがあってか、だんだんと忙しくなっているのがわかった。
そんな時、ある女が現れた。着物の女の友人のようで、彼女を夫に紹介していた。夫は余り関心も寄せずに、素っ気ない挨拶をしたようだった。が、友人は違った。まるで食い入るように夫を見つめていた。
その後も友人は頻繁に現れた。着物の女はそれを喜んでいるようだったが、夫はどこか迷惑そうにしていた。忙しい旅館業に、その関係者でも従業員でもない女が足繁く通ってくるのは迷惑でしかなかったのだろう。
ある夜、夫とその友人だけが影絵に映った。着物の女はその場にいなかった。男は素っ気なくイスに座っていたが、不意に友人が何かに驚いて夫にしがみついた。おそらく虫がいたとかゴキブリが出たとか、そのたぐいの事だろう。夫はすぐに立ち上がって、それを排除したようだった。が、友人はしがみついたまま離れようとしない。むしろ身体をもっとすりよせて、夫に何か訴え始めた。
最初は動揺でしていた夫は、思わず友人を突き飛ばした。床の上に座り込んだ相手を冷ややかな様子で見下ろすと、その場を離れて行った。友人はうなだれたまま、動かなかった。
毎晩毎晩、見せられる影絵を僕はだんだん見るのが辛くなってきた。この話の結末を知っているからなおさらだ。が、早い時間に店を閉めようとすると、まるで見計らったように行灯照明に灯りが点るのだ。付き合わざるを得なかった。
「この街の夏は暑いですねえ」
蝉の大合唱が響く中、汗をふきふき入ってきたのは、人の良さそうな三十半ばの男性だった。背はそんなに高くないが恰幅がよく、お腹が多少出ている。何より福々しい笑顔が印象的だった。まるで布袋さんのようだと僕は思った。
「行灯照明ですが。珍しいですね」
差し出したアイスコーヒーを一息に飲み干すと、相手は言った。
「ええ。1970年代に作られたもので、かつてはこの街の西の外れの旅館にあった物なんです」
そう話した時、福々しい笑顔がすっと消えた。
「もしかして、村雨屋ですか?」
「ご存じですか?」
「……私も、旅館業を営んでいますので。その名前は今でも聞きますよ。……あの事件も、もう三十年くらい前の話になりますね」
そう言うと、アイスコーヒーをおかわりし、古い青磁の一輪挿しを購入して帰って行った。
その日の夜、行灯照明は新しい人物の影を映した。友人が、ひよろりと背の高い男を連れてきて、着物の女に紹介していた。着物の女は気さくに挨拶をし、その相手を案内した。
それから、その男は一人で現れるようになった。かなり頻繁に。
夫はそれを不満に感じているようだった。着物の女にしてみれば大事な客だし、何より友人からの紹介で訪れるようになった客だから、なおさら気遣って接した事だろう。だが夫にしてみれば、その男を贔屓にしているようにしか思えなかったのかもしれない。何より、あの友人の紹介だという事が気に入らなかったのだろう。二人は言い合いをする場面が増えてきた。
やがて破綻の日が来た。ある夜、とうとう夫婦は諍いを始めたのだ。妻の感情的な言葉に夫は思わず平手打ちをした。妻は頬を押さえ、逃げるようにその場面から消えた。
一瞬、行灯照明の灯が落ち、またふっと点った時、そこには着物の女と友人が映し出された。着物の女は泣き続け、それを友人が慰めているようだった。そこへ来客が現れた。それは夫ではなく、旅館に頻繁に訪れていた客の男だった。その男が何か言い、友人も言葉を添え、二人はその場を出て行った。一人残された友人がイスに腰を下ろした時、再び来客が来たようだった。気づいて画面を横切って消えた次の瞬間、女は慌てたように後ずさりして現れた。夫がすごい剣幕で乗り込んできたのだ。そして女の襟首を掴むと、何かを問い詰めた。女の影は見るのも哀れな程、震えながら何かを答えた。男は相手を力任せに押し飛ばすと、荒い足取りで出て行った。……この後、あの事件が起きたのだ。僕はそう思った。
残された女は床の上に座り込み、まだガタガタと震えていた。が、やがてその口元が歪み始めた。女は天を仰いで高笑いを始めた。影絵に音は無い。だが、僕にはその女の笑い声が聞こえる気がした。
これは、復讐だったのだ。自分を振り向かなかった男への。
その男が最も大切にしていた存在を最も残酷な形で奪ったのだ。この友人は女将と親しかったという女弟子なのだろう。だが、まさかあんな事件になるとは思っていなかったのではないか。あの事件の後、女弟子はショックで体調を崩して亡くなったと聞いた。だからといって、この友人がした事が許されるわけではないのだが……
その翌日、照りつけるような強い日差しと、悲鳴のようにしか聞こえない蝉時雨の中、一人の客が現れた。頭髪は真っ白だが、日に焼けた厚い肌は頑強そうだった。眼光は鋭く、その表情は厳しかったが、深い皺が刻まれていた。若いようにも、年老いたようにも見えたが、実際は六十を過ぎたくらいだろうか。
彼は行灯照明をじっと見つめていたが
「まだ、こんなものが残っていたんですね」
そうポツリと呟いた。僕は思わず息を呑んだ。「夫」だと思ったのだ。
「いくらです?」
その金額を伝えると、相手は1万円多く差し出し
「これで、この照明を処分してくれませんか」
「……え……」
「失礼します」
「あの、せめてコーヒーだけでも飲んでいかれませんか?」
相手は少しためらったが、大人しく席に着いた。僕はアイスコーヒーを差し出すと
「あの照明の事は、この前来られた布袋さんからお聞きになったんですか?」
「布袋?」
そう言うと、彼はふっと笑って
「あれは息子です」
「えっ……息子さん!?」
「事件当時は五歳で、他所の街に嫁いだ私の妹夫婦の養子として引き取られましたから、今では名字が違いますが。旅館を仕事にするとは皮肉な話ですよ。良い息子です。私を引き取ってくれた。今は、息子の旅館で玄関番やら庭の手入れやら雑用係のような事をしています」
「そうですか……福々しい顔で笑われる方ですね」
「いろいろ辛い思いをしてきたでしょうに、穏やかな顔の人間に育ってくれました。……笑い方は妻にそっくりなんですよ」
「……仲の良いご夫婦だったそうですね。その……あなた方を知っている人から聞きました」
まさか、その照明に映し出されたとは言えないので、僕はそう話した。相手は自嘲めいた笑みを浮かべると
「……私は最低のクズですよ。大切なものを守れず、壊すことしかできなかった。今でも私は妻を愛しています。でも同じくらい憎んでもいるんですよ。私は、いつも妻の目を感じているんです。あのときから、ずっと。怯え、恐怖にかられながらも、心底から私を軽蔑していた、あの最期の目をね。
……それなのに、私が後悔しているのは、妻を殺した事ではなく、あの男と一緒に殺してしまった事なんです」
ゆっくりと立ち上がり、僕を振り返ると
「この照明、必ず処分して下さい」
そう言い残すと、静かに店を立ち去っていった。
「お兄さん、いてはる?何か飲ませてくれへん?」
日差しに朱が混じり始めた頃、ハンカチ片手に清原春華がひょっこりと現れた。
「……どないしはったん?具合でも悪いのん?えらい顔色やんか?」
僕の顔を見て、驚いたような声をあげた。
「……いえ……」
「暑い暑いいうて、水物ばっかり取らはってるんやろ。夏こそスタミナがつくモン食べなあかんえ?天ぷらとかうなぎとか」
「……貴女は今まで辛い思いをさせられた相手に仕返ししたい、と思った事、ありますか?」
「……何やの、いきなり」
「僕は貴女によく『男運がない』ってからかってましたけど、でも貴女にしてみれば、その度に嫌な思いや苦しい思いをしてたわけでしょう?」
彼女はポカンとして僕を見ていたが、やがて困ったように笑うと
「あのな、お兄さん。道成寺の清姫や吉備津の釜の磯良のように、いつまでも一人の男の人に執着して、相手も自分も不幸になる女の人は、そうそうおらへんえ?
私かて別れた相手には、嫌な思いも辛い思いもしたけど、でもそればっかりだったわけやあらへん。楽しかったことやおもろかったことかてあったんや。……まあ、相手に不幸になれ、って呪う気はない分、良い人みつけて幸せになってな、て思う事もないけどな。そこまで人間できてへんし。けど、元気で生きててほしい、とは思うわ。せやないと」
そこで彼女は満面の笑みを浮かべた。
「数年後にぱったり会うた時に、こんなエエ女手放したんか、失敗してしもたーって後悔させられへんやろ?」
僕は呆気にとられて彼女を見た。が、思わず小さく吹き出してしまった。
「……その前に、貴女は男を見る目を養うべきでしょう?」
「何やの、落ち込んでるかと思うたら、元気やん」
彼女は拍子抜けしたようにそう返した。が、小さく笑って
「……お兄さんも、いろいろと思うところがあるんやろうけど、お兄さんはこの店で、いろんな人が使うたモンに囲まれて、何の悩みもなさそうな顔してコーヒ-や紅茶を入れてはるのが似合うとるよ」
「では、僕らしくお茶でもいれましょうか。シャリマティーでしたね」
「オレンジ多めにいれてな」
耳をつくような蝉の声はいつしか止んでいた。坪庭から、夕暮れ時の涼やかな風が一筋入ってきて、窓際の風鈴を一声鳴らした。
前回、今回とちょっと問題ありな女の人が続いているので、次回は純情可憐な女の人を書きたいと思っています。こう暑いとみょうな話を書いてしまいます。