鳴く香合
「ほんまにすみません」
そう言って何度も頭を下げると、若い茶道の女師匠は逃げるようにして店を出て行った。僕は深い嘆息を漏らす。こうなる事は予想していたが、彼女で三人目だ。
振り返ってテーブルの上に置かれた物に目を向ける。寄木で琵琶の形をした、螺鈿を施された香合。今にして思えば、骨董屋が集まる市で目を止めたのが運のつき。
「あんたも『一閑人』なんて名前の店をやってるんだから、茶道具の一つくらい置いておかんと洒落にならんぞ」
と言われ、そんなものかと思い、つい購入した。想像以上に安価だったのも理由の一つだ。しかし、安いにはちゃんとわけがあったのだ。
香合はすぐに年配の茶人の男性に売れた。ところが、お代の返金はしなくていいから、とすぐに返品された。またすぐに売れた。が、すぐに返品。さすがに疑問に思って理由を聞いたが、相手は何も言わずに帰って行った。三人目が今の女師匠だ。彼女のおかげで理由がやっとわかった。
夜、休もうとすると突然、家を揺るがすようなべいん、という大きな琵琶の音がする。その音は一晩中鳴り響くらしい。だが、家族にはその大音響が全く聞こえない。その音は香合を購入した者にしか聞こえないのだ、とおびえながら話してくれた。
織田信長の所蔵していた唐銅香炉の「三足の蛙」は本能寺の変の前夜、異変を知らせるように突然鳴いた、というけれど、香合が鳴くなど聞いた事もない。それに香合は茶道具で、今までの客は全て茶道の関係者だった。
「……何が不満なんだ?最初の二人はじいさんだったけど、今のは中々色っぽいお師匠さんだったじゃないか」
そう訊ねたところで、答えが返ってくる訳でもないが。
梅雨入り前のカラリと晴れた日の午後。一組の客が来店した。大学生くらいのカップルだったが、店に入ってから、互いに言葉を交わすわけでもなく、無言のままコーヒーを飲んでいた。付き合い始めて間もないようにも見えないし、不思議な客だ、とパソコンの前に座ってメールのチェックをしていたら、
「これ……何ですか?」
彼女が声をかけてきた。それは件の琵琶の香合だった。
「茶道具で、香木や練香をいれる物ですよ」
すると彼女はいくらか、と訊ねてきた。断ろうと思ったが、ことのほか真摯な表情に押されて、今まで売った値段の半額以下の金額を伝えた。大学生には痛い出費になる額だったが、彼女はあっさりと購入を決め、バッグから包装された袋を取り出した。現れたのは真珠のピアス。それを僕たちが見ている前で、香合の中に入れた。
「……こうして持ってく。くじけそうになったら、これを見て頑張るから」
彼女はそう伝えた。彼は無言のまま頷いていた。
梅雨の晴れ間、さすがに雨の後は蒸してくるようになった頃、彼が一人で店に現れた。
「ここで買った小物入れ、今でも大事にしてるみたいです」
彼女はヴァイオリニストで、現在ウィーンに留学しているという。けれど彼は、クラシック音楽の事は全くわからない。そして彼女も、いつ日本に帰ってくるのかわからない。これを契機に別れたほうがいいかもしれない、と互いに言葉にしなくても感じていたらしい。
けれどあの日。留学が決まったお祝いに、とプレゼントしたピアスを香合に入れて、大切そうに持っていた姿を見て、彼女を待とう、という気になった。今はパソコンでメ-ル交換をしているそうだ。
「アルバイトをして、ヨーロッパに行く旅費を貯めているんです。彼女にも会えるし、俺の専門は建築なんで、向こうの建造物も見て回ろうと思って」
「彼女……あの入れ物の事で何か言ってませんか?」
「……?いいえ、何も」
彼はそう言うと、コーヒーを飲んで帰っていった。
カップを片付けながら僕は、彼女は今でもピアスを香合の中に入れたままなのではないか、と思った。あのピアスはきっと、彼とウィーンで再会する時、彼女の耳を飾るのだろう。それまでは、あの香合がずっと守っているのだ。そうであってほしい、と坪庭の上の青空を見上げ、心からそう願った。