翡翠《かわせみ》は歌う(後編)
「お久しぶりです、安宅様」
母親はにっこりと笑って、そう告げた。
「お久しぶり。お元気そうね。坊やも大きくなったこと」
そう返した彼女は、すでに余裕すら感じる笑顔を見せた。
「夫も安宅様には、随分とご贔屓にして頂きましたのに、すっかりご無沙汰してしまいまして、申し訳ございません」
表面上は、穏やかに話しているし、お互いに笑みさえ浮かべている。が、ピリピリとした緊張感のある空気だけはごまかしきれない。
「この子もピアノを習っているんです。三才から」
「まあ。それは是非とも聴かせて頂きたいわ」
その言葉に、母親はほんのわずかだが、躊躇した。そして。
「こんな、ようけ人のいる所で聴かせるほどの腕ではありませんから」
低い声で呟く。それに安宅夫人は不敵な笑みを浮かべた。
「そんな事おっしゃらずに。お父様の血を継いで、さぞ才能があるのではなくて?もしよろしければ、私、援助は惜しみませんよ。丁度生演奏が終わったところですし。ねえ、坊や。何か弾いてみせてくれる?」
大人達の冷ややかなやりとりに気づかないように、少年は小さく頷くと、壇上のグランドピアノへと近づいて行った。
大勢の大人達がいわくあり気にヒソヒソと話し始める。注目される中、少年は何のてらいも無くピアノを弾き始めた。それはベ-ト-ベンの「テンペスト」第三楽章だった。
正直、僕はそれまで見せてもらった若い才能の数々の作品よりも度肝を抜かれた。少年の小さな手と指は、既に卓越した技術と表現力を持ち合わせていたのだ。そして、そのピアノの音色は聞き覚えがあった。
少年は「あらし」という名の曲を嬉々として、歌うように奏で続ける。その時、どこからか翡翠の鳴く声が聞こえた。まるで少年の演奏に合わせるように。だが、他の人には聞こえていない。少年のピアノに圧倒されて、口をきくことすら忘れてしまったようだった。
少年が弾き終えた時、自然と拍手が起きた。その時になって初めて、少年はピアノから離れて母親に恥ずかしそうにしがみついた。
「この子は今年の夏から、ウィ-ン国立音楽大学の特別留学生として学ぶ事になりましたの。この子のピアノ演奏の動画を主人がお世話になったあちらの先生に送りましたら、すぐに来てこちらで勉強しなさい、と言って下さって」
「……」
「では、私はこれで……」
勝ち誇ったような表情で、母親は少年の手を引いて会場を後にした。
僕はその母子を追って廊下に出ると、安宅麗香もホ-ルから出てきて、彼らとは反対の方向へと足早に歩いて行った。少しためらったが、僕は彼女の後と追った。彼女はホテルのフロントを見下ろせる場所で、彫刻のように人々の行き来を見下ろしていた。動かない目のまま。
僕はちょっとその場を離れて、ホットの缶コ-ヒ-を買ってくると、彼女に差し出した。驚いたように目を向けた彼女に
「貴女に缶コ-ヒ-は似合いませんけど、ホテルの中は冷房がきいてるみたいなので」
「……有難う」
そう言って受け取ったが、やはり彼女と缶コ-ヒ-は絵的に似合っていない。
「あの子……ピアニストの相模俊弥のご子息ですか?」
「……相模をご存じ?」
「ええ。和製グ-ルドと言われた人ですから。最もグ-ルドと違って、ベ-ト-ベンが得意でしたけど。表に一切出ず、CDでのみ演奏を発表する。些細なミスを許さず、完璧な演奏を残す事にこだわった、いわゆる完璧主義者でしたね」
「以前はそうじゃなかったんですよ」
彼女は缶コ-ヒ-を強く握った。
「相模は、私が特に目をかけた人でした。初めて会った時、彼は十八の音大生でしたけど、ずば抜けて才能がありました。私は彼に惜しみない援助をしました。留学の手配、コンク-ルへの参加、日本でのデビュ-まで、全て私が用意したようなものです。なのに……彼は二十六の時、十九の小娘と結婚しました。それも、なんの才能も持たない、ただの女と。
それを機会に、私は援助を打ち切りました。それどころか、彼が演奏する場を全て潰しましたわ。日本で演奏できないように。勿論、彼は再度海外へ渡ったけど、元来人付き合いの苦手な男でしたし、有能なマネ-ジャ-も雇えず、妻は外国語を話せるような才覚もない。結局日本に戻ってきて……
そして、CDを出す事で生計を立てていたんです。三十四で亡くなるまで」
彼女は僕をキッと見上げると
「でも私は後悔していません。あれ程援助し、期待をかけてやったのに、それを裏切ったのですから」
「……それで、貴重な才能が潰れたとしてもですか?」
「所詮、その程度の才能だったんです」
そう言い捨てると、彼女は口尻を釣り上げた。そして会場へと戻っていった。元の悠然とした足取りで。
ホテルを出た時、あの母子が傘を差して立っていた。というか、母親がハンカチで目を押さえていて、それを息子が心配そうに見上げていた。
「……相模さん、ですね」
声をかけると、はっとしたように母親が顔を上げた。
「……ご子息は、お父様とそっくりなピアノを弾かれますね」
母親は礼を言うように頭を下げた。
「こんな雨の中ではなんですし、僕の店がこの近くにありますから、よろしければお寄りになりませんか?先ほどの素晴らしい演奏のお礼に、コ-ヒ-をご馳走させて頂きたいんです」
彼女は少し迷ったようだったが、息子と一緒に大人しくついて来た。
「へんなもんが、ようけあるわ」
店に入るなり、少年が叫んだ。
「お二階ある!なあ、お二階あがってもかまへん?」
「俊二!」
「いいよ。何もないけど」
少年は嬉々として急な階段を駆け上がって行った。
「すみません……」
「構いませんよ。座って待っていて下さい」
僕はBGMをかけて、コ-ヒ-を入れるお湯を沸かした。その曲を聴いて、彼女は目を上げた。
「これ……相模の……」
「ええ。ベ-ト-ベンの『月光』第三楽章です。僕は有名な第一よりこの曲のほうが好きなんですよ」
そう言って、僕はブレンドを彼女の前に差し出した。彼女は礼を言い、香りを楽しんでから一口飲むと
「……相模は……もっともっと有名になれるピアニストでしたん……なのに、あの女が、それを潰してしもたんです。自分よりえらい若い女と結婚しはったんが、よっぽど許せへんかったんやろうけど」
吐き捨てるように彼女は言った。そしてハッと我に返ったように、カップを置くと
「……すみません……でも、相模は、ほんまにピアノが弾きたかっただけなんです。それをお金と力づくで奪われたんが、くやしゅうてくやしゅうて……」
彼女は再びハンカチで目を押さえた。
「でも貴女は、その相模さんの才能を次世代へ繋いだじゃないですか」
僕がそう告げると、彼女はハンカチを放して目を上げた。そして、勝ち誇ったような笑顔を浮かべた。
「それが、私の誇りです。あの子は何があっても私が守ります」
二人の女に一人の男。昔からよくあるパタ-ンだ。では、肝心の男はどう思っていたのだろう。
「俊二、帰りますえ」
母親がそう二階に向かって声をかけても返事がない。僕が見て来ましょう、と階段を上がると、息子はCDラジカセとCDを見つけだして、クラシックを聴いていた。その時流れていたのは、ルビンシュタインのショパンのセレナ-デだった。僕は彼の隣に座ると
「ピアノ、好きかい?」
そう訊ねてみた。すると彼は顔を上げて大きく頷いた。
「でも弾く方が、もっと好きや。ピアノ弾いてたら、なんもかんも全部忘れるんや。嫌なことも、くやしいことも」
「そう……じゃ、これおじさんからプレゼントだ」
僕は、あの蓋置を彼に渡した。
「なんやこれ。かごの鳥?」
「そう見えるけど、ほら、上があいてるだろう?この鳥はいつだって自由に空を飛べるんだよ」
少年はじっと蓋置を見つめていた。これくらいの男の子はゲ-ムとかの方が興味があるだろうから、いらないと言うかな、と思ったら
「さっき、ホテルん中で、鳥の声がしたんや。この鳥の声だったん?」
「……どうだろう。でも、もし君に聞こえたのなら、この鳥を歌わせられるのは、きっと君だけだと思うよ」
「おおきに」
彼はそう言うと、慌ただしく階段を下りた。この傾斜約九十度の階段を手すりも使わずに駆け下りるのだから、全く子供はすごい。
雨はまだ、しとしとと降り続けていた。水たまりをわざと歩いていく姿は、普通の子供と変わりない。並んで何かを話し、笑いながら遠ざかっていく二つの傘を僕は店先で、傘に当たる雨音を聞きながら見送った。
今日中が二日後になってしまいました。でも梅雨が終わる前に載せられてよかったです。