翡翠《かわせみ》は歌う(前編)
午前中はうだるような暑さだったのに、午後になってから一転、黒雲が立ちこめ、近くで雷の音がしたかと思うと、突然激しい雨が屋根を叩き始めた。
路地を駆け足で走ってくるヒ-ルの音がして、
「ごめんなさい、ちょっと雨宿りさせて下さる?」
という低めの女性の声がした。雨の前の蒸した空気が漂う室内に、噎せるような強くて甘い香水の匂い。目を向けると、この店には全くそぐわないタイプの女性だった。真っ先に目に入ったエルメスのスカ-フとバッグ。指に輝いているのは、おそらくハリ-・ウインストンのダイヤのリング。服はわからないが、おそらくどこかのブランド物だろう。それがすっかり板についている。髪の先から足の指の先まで、金をかけて磨き上げているような女性。決して若くはないが、老けても見えない、年齢不詳の美しさを持っていた。
「車を降りて、散歩がてらに歩いたら、すぐにこの雨だもの。この時期は本当にやっかいね」
バッグから携帯を取り出して、すぐに迎えに来るよう指示をすると、あっさりと電話を切った。人に指示をすることに慣れているようだった。
「あら、この店アンティ-ク・ショップだったの」
店内をぐるりと見回して、初めて気づいたように言った。無感動な声で。
「骨董屋です。そんな洒落た名前の似合う店ではありません」
彼女は振り返って面白そうに笑うと
「貴方、良い声してるわねぇ」
悪戯っぽく返した。彼女は店頭に飾ってある九谷の皿などを興味深そうに眺め始めた。色彩の鮮やかなものに目が行くらしい。そして、ふと、ある物に目を止めた。
「これは何?」
「蓋置です。茶道具の一つで、釜のふたを預ける時に使います。それは『青楓翡翠』で、初夏に使います」
表面に青楓が描かれ、蓋置の中には翡翠がちゃんと作られており、表面に作られた窓から覗くと見えるような趣向になっていた。
「まるでカゴの中の鳥のようね」
それを目の高さに持ち上げて見ながら、彼女はポツリと呟いた。それを元の場所に戻し、くるりと振り返ると
「ねえ?人は何故、鳥を飼おうとするのかしら?姿が美しくて、良い声で鳴く鳥ほど」
「……は?」
「鳥の翼は空を自由に飛ぶためのものでしょう?その為についているのではなくて?それなのに、狭いカゴの中に押し込めて、手元に置こうするのは、その鳥に対する愛情かしら?それとも、ただの独占欲かしら?」
僕には、それは鳥のことを話しているようには聞こえなかった。なので
「……自分の気に入ったものや好きなものを側に置きたい、と思うのは、人なら当然持っている願望です。ただ、その対象の意思を無視してまで自分の思い通りにしようとするのなら、それはただの独占欲でしょうね」
と答えた。相手はじっと僕を見つめていたが、やがてふっと微笑んだ。「華やか」という表現がぴったりと合うような笑顔だった。そして窓越しに外を見ると
「丁度雨が止んだようだし、失礼させて頂くわ」
バッグから有名ブランドの名刺入れを取り出すと、そこから一枚を抜き取った。そして万年筆で何かを書き込むと
「もうすぐ、私が目をかけて援助している人たちの作品を展示する会をこの街で開くの。中々才能のある人たちばかりだから、青田買いしておくと良いわ。ここで雨宿りさせてもらったお礼よ。良かったら来て頂戴」
「……お心遣いは嬉しいのですが、あいにく僕が扱っているのは、その才能のある人たちが亡くなって数十年以上経ったような物なんです」
彼女は再び面白そうに笑った。
「貴方、本当に変わっているわね」
そう言い残し、身を翻すように店を出て行った。渡された名刺に目を向けると「安宅麗香」と記されており、その右上に日時とこの街の某ホテル名が書かれていた。
その日は朝から雨だった。雨の滴で緑の枝葉が重たげに垂れ、しとしとを降り続ける様はいかにも日本の梅雨といった風情だった。ホテルへ行き、受付に名刺を見せると何も言わずにホ-ルに通された。
広いホ-ルには、ピアノのヴァイオリンの生演奏が流れていた。ツィゴイネルワイゼンだ。演奏者は音大生だろうか。
洋画、日本画、彫刻や陶芸などが展示されており、いずれも十代から二十代の若い人々の作品ばかりだ。
「ようこそ、来て下さったのね」
振り返ると、黒の単衣に白のカサブランカが埋めつくされたような着物に、色鮮やかな唐花模様の帯をしめた「安宅麗香」が華やかに笑って立っていた。
「貴女は安宅グル-プの社長夫人でしたか」
「会社と私は関係ありませんわ」
「貴女のご主人が経営されているネットのポ-タルサイトは僕も利用させて頂いてますし、お世話にもなっています」
「私は安宅の家に生まれただけですから。会社や仕事に関しては夫に任せています。最も、そのために婿に来たのですし、会社を滞りなく経営してくれている間は、外で何をしていても口を出すつもりもありませんわ」
ほぼ初対面の相手に臆面なくこんな話をするのは、見た目に寄らず、かなりざっくばらんな性格なのかもしれない。
「そうそう、この着物と帯も若い職人に作ってもらったんですのよ。どうかしら?」
「その着物を着こなせるのは貴女だけでしょうね。他の人では、着物に着られてしまいますよ」
そう返すと、彼女は朗らかに笑った。
「私は、若い才能が大好きですの。それを援助することにお金を惜しみませんわ。勿論、私の目に叶った才能に関してですけれど。若い才能というのは、未来の可能性でしょう?」
「それで、こうした催しを?」
「いくら才能があったって、それを公に披露しなければ、宝の持ち腐れですもの。お気に召しません?」
「……いいえ。やはり幼い頃から一流の物を見ている方なんですね。一流を見抜く目が素晴らしいです」
「貴方は本当にお上手ね。接客業の男性は信用できないわ」
「せっかくお招き頂いたので、これをお礼に持って来ました」
僕は近くのガラステ-ブルの上に小さな桐箱を置いて、蓋を開けた。布にくるまれて現れたのは、あの時の蓋置。それを見た瞬間、彼女の表情から笑みが消えた。
「……どうしてこれを?」
「お気に召したかと思いまして」
「私、お茶はいたしませんのよ」
「……そうでしたか。失礼致しました」
そう言って、それを箱に戻した時、入口の所でザワザワと人のさざめく音がした。見ると、受付の制止に構わず入ってきたのは、水色地に水模様と古典模様を配した着物、薄いピンクの紗の帯を締めた女性。彼女は、見覚えのある小学校の制服を来た十才くらいの少年の手を引いていた。おそらく息子だろう。
それを見た時、安宅麗香の顔は一瞬蒼白になった。
今日中には続編を載せたいと思っています。