「東風吹かば」(前編)
ちまたは三月の卒業シーズンだが、昨年の春大学に入学したばかりの僕には、はっきり言って関係がない。
その日の午後、バイト先から自転車に乗って帰って来ると、家の前に佇んでいる、同い年くらいの女子の姿が目に入った。
僕の家は「田津實屋」という、この街ではちょっと名の知れた老舗の和菓子屋だ。なので、春と秋の修学旅行生や、若い観光客の姿は珍しくない。ガイドブックに商品が紹介されているので、それを購入するために訪れるのだ。何しろ、デパートなどには置いていない、いわゆる本店のみで販売する限定品なので。女子は「限定品」という言葉には本当に弱いものだ。
そういう客層を配慮して、住居も兼ねている店は、車の多い大通りに面している正面入口は、近代的で開放感のある、若い顧客にも入りやすいような明るい装いをしている。
が、その女子は、店の反対側、裏通りに面した方の店先に佇んでいたのだ。この通りも車は通るが、それ以上に自転車や通行人の方が多い。それに裏通りの入口は、古い店先のまま、濃い小豆色の暖簾が重たげにかかっているし、ガラス越しの店内も薄暗い。商品は同じ物を揃えているし、この街の老舗店と言った風情と言えなくも無いが、はっきり言って、一見さんには入りにくい雰囲気なのだ。
「店なら、開いているで」
入りにくくて困っているのかと思って、そう声をかけた。すると相手は驚いたように振り向く。それを見て、僕の方が驚いた。それはまるで「お人形のような」顔立ちの女子だったからだ。
「あの……?」
「……僕、この店の息子やねん」
「……澤口賢治さん、いらっしゃいます?」
「それ、うちのおじいちゃんやけど、今、入院しはってるで」
「……入院?」
相手は驚いたように目を瞠った。が、僕も同じように驚いていた。何故この人が、僕の祖父のフルネームを知っているのか。
「うちのおじいちゃんに何か用なん?」
「私の……おばあちゃんが亡くなった事……伝えたくて……」
「おじいちゃんの知り合い?」
そう訊ねると、彼女は小さく頷いた。
「ほなら、家に入ってえな。お父さんとお母さんにも伝えんと」
その言葉に、彼女はおそろしい勢いで、首を横に振った。家に入るのを頑なに拒んでいるようだった。
「……私のおばあちゃん……いえ、豆由喜が亡くなったと伝えて下さい」
「……豆由喜?」
「じゃあ……」
そう言って踵を返す彼女を僕は、慌てて引き留めた。彼女がどうしても家に入りたがらないので、近くのファーストフードの店へ連れて行った。店内は混み合っていて賑やかだったが、雑音がある方が、相手も気兼ねなく話せるようだった。
「……豆由喜って、花街の名前やんな?」
「……私のおばあちゃん、若い頃、この街で舞妓さんをしてたんです」
彼女の話によると、その時に祖父と出会ったらしい。だが、かたや老舗のぼん、かたや舞妓では、当然結ばれることもなく、祖父は見合いで結婚をし、彼女の祖母も衿かえ前にこの街を離れたのだという。
「……でも、おばあちゃん、ずっと賢治さんに会いたがっていました。私は、それだけ伝えたくて……」
「わざわざ、この街まで来たん?」
小さく頷く彼女を見て、今時こんなけなげな子がいるのか、と僕は切なくなった。余程、大好きなお祖母ちゃんだったのだろう。
「……せっかくやし、おじいちゃんだけにでも、会うていかへん?」
その提案に、彼女は暫し考え込んだが、やはり首を横に振った。
「今日の夜には帰らないと……」
「ほなら、せっかく来たんやし、どっか行きたいとこ、あらへん?案内するで?」
少し迷った後で、彼女は言葉少なに、天満宮の梅が見たい、と答えた。そこは確かに梅の名所だが、ずいぶん渋い事というな、と思った。時間も余りないようなので、早速向かう事にした。
「ほなら乗って」
彼女のバックをカゴに入れ、自転車にまたがった僕は告げた。が、彼女は困ったような顔をした。
「なんや、二人乗りした事あらへん?後輪のところに足を乗せるとこあるやろ。そこに足乗っけて、僕の肩につかまり」
戸惑いながらも、彼女は言われた通りに足を乗せ、遠慮がちに僕の肩に手を乗せた。
「行くでえ」
そう言って、僕は自転車を走らせる。
「……目線が高い……空を飛んでいるみたい」
言葉は少ないが、その声は微かに弾んでいた。
「おおげさやな。今日は暖かいからよかったわ。昨日は寒かったんやで。この時期に雪が降ってん。うちのお母さんなんか『春告げの雪やわ~』なんて、のんきな事いってはってな」
この街は自転車があれば、かなり便利だ。小回りが利くので、せまい路地や抜け道を通って、場合によっては交通機関を使うよりも早く、目的地へ向かう事ができる。実際、日常生活で自転車を利用している人も多い。
天満宮は、ちょうど梅苑が公開されている時期なので、観光客が多かった。
「何で、ここの梅が見たかったん?」
「……おばあちゃんが、すごく見たがっていたんです。
舞妓さんの間は、花街を出てはいけない、ってしきたりがあるんだそうです。だから、おばあちゃんは、梅も桜も花街の中で咲くものしか見た事がなかったそうなんです。そう話したら、賢治さん……あなたのおじいさんが、お菓子を作って持ってきてくれたんだそうです。『北野の飛梅』って銘をつけた」
「飛梅?」
「天満宮は、菅原道真を祀っているのでしょう?道真は梅と松と桜を大事にしていたそうですけど、道真が太宰府に左遷された後、桜は哀しみのあまり枯れ、松は主の後を追ったけど途中で力尽いた。けど梅だけは一晩の間に太宰府まで飛んで行った、て。その梅を見立てて」
「へえ……」
自分の祖父に、そんなエピソードがあったのか、と僕は少し意外だった。自分の中の祖父は、ガチガチの職人気質の姿か、今の身体を壊して入退院を繰り返す姿しか思い浮かばない。
「……おばあちゃん、この梅をずっと見たがっていました。この街を離れる時、梅の季節は過ぎていて、それからずっと、この街には来なかったから……」
「何で、会いにきいひんかったん?昔はともかく、今なら茶飲み友達になれたやろ?」
「……年老いた姿を見せたくないって……」
「……はあ?」
「賢治さんの記憶の中では、今でも初々しい豆由喜のままでいるんだから、そのままの方がいいって……。自分の中でも、『ぼんの賢治さん』でいるように。……でも、本当に、ずっと賢治さんに……あなたのおじいさんに会いたがっていました」
「ほならムリせんと会えばよかったやん。そりゃおばあさんになってたかもしれへんけど、そんなん時間が経てば当たり前やろ。うちのおじいちゃんかて、ヨボヨボなんやから」
そう言うと、彼女は困ったように微笑んだ。
「……あなたはいい人ですね。……えっと」
「和哉。澤口和哉や」
「私、八重っていいます」
「古風な名前やな」
「おばあちゃんが付けてくれました。おばあちゃんが舞妓さんを辞めて、この街を離れる時、賢治さんが伏見人形の八重垣姫をプレゼントしてくれたそうです。君にそっくりやって言って。
おばあちゃん、初めて花街を出て、電車に乗って、大きな森のある神社へ二人で参拝して、その時に渡されたそうです。とても大切にしていたのに、なくしてしまった、って言ってました。……この街に来た、もう一つの理由は、それを探しに来たんです。同じ物はムリでも、おばあちゃんが貰ったものと同じ時代の人形はないかな、と思って。でも……」
「見つからなかったん?」
彼女は力なく頷いた。
「ほなら、僕が探そか?」
その言葉に、彼女は驚いたように目を向けた。
「もう、この街には来れへんの?おばあちゃん、うちのおじいちゃんに会いたがってたんやろ?なら、せめて八重さんが会うべきなんちゃう?うちのお父さんとお母さんには黙っとくし」
「……二週間後に、もう一度来ます」
「決まり。何使うて、この街に来はるん?迎えに行くで。JR?バス?」
「……おばあちゃん達が最後に会った、神社の鳥居の前で会いませんか?今日と、同じ時間に」
そう言うと、彼女は腕時計に目をやり、もう帰らないと、と告げた。送ると話したが、ここで良い、と言い
「今日は有難うございます。……楽しかった」
少し微笑んで、彼女は立ち去って行った。祖母の思い出を語る時は能弁だが、それ以外は本当に口数が少ない。けれど、本当に喜んでくれていたのは、手に取るようにわかった。
ふっと甘い香りがして我に返った。梅の匂いだ。が、それはすぐに消えてしまう。彼女の立ち去った方向に目を向けたが、すでに姿は無い。夢でも見たような気分だったが、現実にはとんでもない事と安請け合いしてしまった。あと二週間で、彼女が探している昔の伏見人形を探さなければならないのだ。