暖かな雪(後編)
翌日、パソコンでオルゴールの修理をしてくれる所を検索していると、路地をカツカツと歩いてくる高い靴音が聞こえてきた。
「ご免下さい」
そう言って、キビキビした行動で店内に入ってきた女性に、僕は目を丸くした。それは世界ランク20位のプロテニスプレーヤーの松崎夏紀だったからだ。
「昨日、オルゴールを売りに来はった人、いはりますよね?」
「ええ……音は鳴りませんけど」
「それ、いくらで買い戻せます?」
「……お預かりしただけですので、もしよろしければお返ししますけど……何か意味のある物なんですか?これを持って来られたお客様は、時々一人でご来店されますが、どことなく寂しそうでした」
彼女は口を噤んだ。暫し思案した後で
「彼女、あのオルゴールの事で、何か言ってましたか?」
と、標準語に改めて質問してきた。僕が標準語なので、合わせたのだろう。
「壊れても修理できる、と伝えましたが、その必要はない、と」
彼女は、ふう、と嘆息を漏らすと
「コーヒー、頂けます?」
と言い、テーブルの前に座った。
「……松崎夏紀さんですよね?プロテニスプレーヤーの」
コーヒーを差し出しながら、僕は訊ねた。彼女はじろり、と警戒するような視線を向けてきた。
「ご友人は、何か和事の関係者ですか?」
「……ええ、彼女は舞踏家で、踊りの師匠もしてます。聞いた事あります?『梅宮芳寿』って名前」
「あいにく和事はとんと疎いもので」
そう返すと彼女は笑った。
「そうですよね。もっとも私も、奏以外の踊りはわからないけど」
「……奏、というのは本名ですか?」
「ええ。小学生の時からの友人。学校は違ったけど、母親が友達同士で、10才の時に初めて会ったの。それまでは私が会うのを拒んでいたんだけど」
「……それは?」
「何かっていうと、母親は奏ちゃんは大人しく女らしい、それに比べて……みたいな事を言うのよ。私、その頃からテニスをしていたし、外で遊ぶのも好きだったから、真っ黒に日焼けしてわんぱくな男の子みたいだったから。でも、そう言われると、やっぱり子供ながらもムカツクんですよね。会った事なかったけど、私、奏の事、嫌いでしたもの」
彼女は、懐かしそうな顔で言葉を紡いだ。
「でも10才の時、彼女が舞台に立つっていうんで、母親にムリヤリ連れて行かされたんです。全く興味なかったし、半分くらいはうつらうつらしてたんだけど……あの子が舞台に立った時、正直驚いた。『手習子』を踊ったんですけどね、まるでお人形が踊っているみたいに現実感がなかった。……人って、全く別の世界の人間を見ると、嫉妬とかって感じないんですよね。自分とは違う、って思っちゃうの。
……けど、その後で楽屋に行ったら……」
そう言った後で、彼女は吹き出した。
「……踊りで顔を白塗りするんですけど、それが全然取れなくて、泣いてるんです。実際あれって、クレンジングで一、二度洗ったくらいじゃ取れないんですよ。『もう嫌やー。こんなん二度とせえへんー』ってワーワー、ワーワー」
彼女は笑いをこらえながら、話をした。あの古風な人にも、そんな頃があったのか、と僕も思わず微笑んだ。
「それ以来の友達。進む道は違うけど、一つの目的を持ってるって事では、私たちは友達っていうより同志みたいなものかな。ただ、彼女も迷っている時期があったんです。その理由が、そのオルゴール」
僕は、壊れたオルゴールに目を向け、それを彼女の前に置いた。彼女は黙ったまま、蓋を開けたが、当然音が鳴ることはない。
「あの子、14才の時、同じ学校の1年上の先輩と付き合ったんですけど、その人と10年続いていたんですよ。少女マンガみたいでしょ?で、10年目にプロポーズされたんです。妥当な話ですよね。ただ、彼は踊りは趣味でやって欲しい、て望んでました。でも彼女は18の時に舞踊家としてデビューしてたんです。だから、今は結婚は考えられない、もう少し待って欲しい、て話をして、彼もわかった、って答えたんですけど……彼、その翌年に、同じ会社の女性と結婚しちゃったんです」
「……」
「ショックだったと思う。だって10年付き合っていた人だもの。確かに彼女のわがままって言われたら、それまでだけど。でも、やっぱり信じていたと思うんですよね。
……あのオルゴールは舞踊家としてデビューした時、彼からプレゼントされたんです。他にもらった物は思い切りよくほかしてましたけど、これだけは手元に置いてました」
「それなら、いっそ手放されたほうが良いんじゃないですか?」
「このオルゴールの曲目、『こんぺいとうの踊り』なんです。チャイコフスキーの『くるみわり人形』の中の曲で、バレエでは12月になると、結構踊られる演目なんですって」
「なるほど、日本でいう『忠臣蔵』みたいなものですね」
「……ちょっと違うと思うけど……、まあ似たようなものかな。彼は何気にプレゼントした物だったかもしれないけど、奏はすごく喜んでいました。踊りに関係のある物だったから、だと思うんです」
「それでしたら、一つ提案があるんですけど」
松崎夏紀は、店を出るとき、くれぐれも自分が来た事も話した事も、彼女には言わないように、と念を押して帰って行った。
僕は再度パソコンの前に座り、動画サイトで『こんぺいとうの踊り』を検索してみた。メロディは確かにオルゴールを連想させるもので、それに合わせてバレリーナが踊っていた。あの日見たものが、なぜバレリーナの姿をしていたのか、その理由がわかった。
さらにもう一件、検索してみた。それは『鷺娘』という日本の踊り。彼女が舞踊家としてデビューした時、踊ったと聞いたからだ。
12月に入り、年の瀬が近づく慌ただしい空気と共に、冬の寒さが本格的になった頃、彼女がやはり和装姿で来店した。
「いらっしゃいませ」
そう声をかけると、軽く会釈をして、いつもの席に座った。いつも通りオーダーされたコーヒーを出した時、同時に僕はオルゴールを差し出した。驚いたように僕を見上げる彼女に
「開けてもらえますか?」
と告げた。彼女は、どこかためらいながらも、そっと蓋を開けた。すると『こんぺいとうの踊り』が流れ出した。その時、テーブルの上を、あのバレリーナが曲に合わせて踊り始めた。それは現れては消え、消えては現れながら、テーブルの上を自由に踊り続ける。その表情はいきいきとして、喜びに溢れていた。彼女は静かに蓋を閉じる。メロディが消えたと同時に、バレリーナの姿も消えた。
「……直しはったんですね」
「はい。リュージュはメンテナンスもしっかりしています。お代の心配は必要ありません」
「……夏紀ですね。ここに来はったんでしょう?」
小さく笑って、彼女は言った。
「……こんな事しはるの、夏紀しかおらへんもの」
「……あなたの踊りのファンの方からのクリスマス・プレゼントです。ちょっと早いですけど。その人がおっしゃってました。日舞はさっぱりわからないけど、あなたの踊りを見るのは好きなんだ、あなたが踊った『鷺娘』の美しさは、今でも脳裏に焼き付いていて離れない、と」
「……昔から、夏紀はそう言ってくれはるんです」
彼女はオルゴールを見つめながら、そう言った。
「私、ほんまはずっと迷ったり、後悔していたりしてました。踊りは好きやけど、違う選択をしているべきやったんやないか、って。日舞って、正直それ程需要のあるものやないでしょう?このまま続けて、意味があるんやろうか、って……
でも、それでもやっぱり踊りを捨てる事はできひんかった。自分で決めた事やから、後悔しないようにしよ、思いました。そう思えるんは、夏紀が頑張っていはるから。夏紀は、テニスの才能もあるし人一倍努力もしてて、だからこそ世界でプレイしてはる。けど、世界には努力しても努力しても、それでもかなわへん相手っていはるんです。でも夏紀は泣き言は絶対言わへん。それどころか『海外の食べ物は口に合わへん』とか『海外に行くと、その辺のおじさんが普通にレディ・ファーストするから、ほんまに永住しようかと思う時がある』とか、しょうもない話ばかり。
でも、夏紀が頑張ってはるから、私も頑張れる。夏紀の強さは、私の憧れなんです。……ほんまに、いつまでも落ち込んでるヒマなんてなかったのに……」
「あなたが迷っても、後悔しても、それでも日舞を続けているから、ご友人も頑張っていられるのではないですか?」
驚いたように彼女は目を向けた。
「あなたがいるから、ご友人はきっと強くいられるのだと思います。ご友人の存在が、あなたを強くしているように」
彼女は無言のまま、じっと僕を見つめていた。が、静かに微笑んだ。それは、いつもの寂しげな表情とは違う、嬉しそうな笑顔だった。
コーヒーを飲み終えた後
「今は試合前でそれどころやないけど、試合が終わって落ち着いたら、夏紀とコーヒーを飲みに来ます」
「いつでもお待ちしておりますよ」
彼女はオルゴールを大切そうにバッグに入れて、帰って行った。ふと窓を見ると、今年最初の雪がちらついていた。寒いのは苦手だが、ガラス障子を開けて、空を見上げる。この日見た雪は、どこか暖かく感じた。
寒い季節となりましたので、何か暖かくなるような話を書こうと思ったのですが、何故か友情物になってしまいました。読んで下さった皆様、風邪にはくれぐれも気をつけて下さい。