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想いが空に届く日(後編)

 定休日の午後、僕は懐中時計の修理が可能かどうか見てもらうために、街中へ出かけた。

『高い建物がたくさんありますな……』

 不意に傍らから、そんな声がした。見ると、彼が林立するビルを見上げて、ポカンを口を開けている。

「この街は高い建物が建てられる場所が決められているんですよ。この辺りとか、あとは駅の周辺から南の方かな。でも、他の街には、もっとずっと高い建物がたくさんありますよ。ここは観光が資源の街なので、景観条例があるんです。最も、古い町並みを知っている人が見たら、随分変わってしまったでしょうけど」

 通りを犇めくように走る車の群れにも驚いて見ている彼を引っ張って、僕は狭い一通の路地に入った。そこには昔気質で愛想の悪い、けれど腕はすこぶる良い時計の修理の専門家の店があった。彼は時計を見て

「あかんな」

 一言呟いた。

「……ムリですか、やっぱり」

「こないになってもうたら、中の部品をそっくり変えた方が早いわ。けど、こんな精巧な部品、作れはる店も職人も、今の時代には、いてへんやろ。仮にいはったとしてもオ-ダ-メイドになるやろうし、えらいかかるで。アクセサリ-や思て、持ってはったらどうや」

 予想はしていたが、やはりガッカリした。けれど、これ以上の奇跡を望むのは傲慢というものかもしれない。

 店を出た時、彼は街を見渡せる場所はないか、と訊ねてきた。せっかくなので駅まで行き、そこの空中径路へ上がった。彼は目の前のタワ-も、ポカンとして見ていた。

『こんな物、いつの間に出来たのでありますか?』

「詳しくは知りませんけど、戦後のはずですよ。海のないこの街の瓦屋根を波に見立てて、灯台のイメ-ジで作ったとか何とか……」

 彼はそれを見つめ、所狭しと並ぶ建物を見つめ、地上を行き交う車や人の波を見つめて、呟いた。

『この国は、平和なのでありますね。もう空襲サイレンや艦載機の影に怯える事もない』

「……僕は、戦争を知らない世代です。だから貴方に語れるものは何もありません。でも、この平和は残された人々が必死になって築き上げたものだと信じています」

 彼は、無言のままだった。ただ黙って目の前の風景を見つめていた。

 店に戻る途中で、どこからか寺の鐘の音が聞こえてきた。

『鐘の音だけは、変わりませんな』

 彼は微かに笑ってそう言うと、再び陽炎のように消えた。


 その日の夜。僕は酒屋に行って、この街の地酒の小瓶を購入した。店に戻り、テーブルの上に唐津のぐい呑みを二つ用意し、向かいに懐中時計を置いた。

「良かったら呑みませんか?せめて呑んだ気分だけでも」

 目の前にあるけど呑めない、というのはおあずけをくらったようで辛いかとは思ったが、試しに声を掛けてみた。すると影が揺らいて、彼が現れた。

『自分は下戸でありますので、気持ちだけ頂戴いたします』

 その夜、彼はやっと自分の事をポツリポツリと話してくれた。当時は見合いの席で初めて会い、お互いをよく知らないまま結婚するのが普通だったが、彼の妻は友人の妹で、子供の頃から知っていたらしい。それだけでも自分は恵まれていた、と。そして出兵する時、妻のお腹の中には、初めての子供がいたのだという事も。

「東京では、どちらに住んでいたんですか?」

『五反田であります』

 思わず手を止めた。五反田は大空襲を受けた場所のはずだ。

「……奥さんや、お子さんに会いたいですか?」

 彼は無言だった。が

『……自分の子孫が、もし生きているのなら、一目でも会ってみたいであります』

 最後まで、奥さんに会いたいとは言わなかった。昔の男性なので、そう言う事は照れくさいのかもしれないし、そう思う事は恥だと思っているのかもしれない。でも、それ以上に彼は感じているのだろう。自分の妻は、はたして終戦まで生き延びていてくれたのか、と。仮に生き抜いていてくれたとしても、もしご存命なら80才以上。既に亡くなっている可能性を否定できないのだ。

 だからこそ、やはりこの懐中時計を彼の縁者に渡したい。僕はそう思った。


 次の定休日、僕は彼が昔住んでいた住所を聞いて、訪ねてみた。

 この街は戦火をまぬがれたので、上手くいけばまだ、そこに子孫の方が住んでいるかもしれないと思ったのだが、そこは既にマンションが建っていた。近所の人に聞いてみたが、戦前の事はわからない、という話だった。ついでに奥さんの実家があった場所にも行ってみたが、そこも知らない人が真新しい家を建てていた。当然、戦前の住人を知る人はいない。

 やはり半世紀以上の時間の壁は厚かった。

 八方塞がりのまま季節は移り、紅葉にはまだ早いが、金木犀の甘い香りが漂うようになって、秋の気配となった頃。

 店先に、懐中時計を探す女子中学生が現れたのだ。

「……お嬢さんが使うんですか?」

「プレゼントにしよ、思て。私の曾お祖母ちゃんに。もうすぐ誕生日やねん」

「曾お祖母さんに懐中時計、とは変わってますね」

「家の曾お祖母ちゃん、よくその話すんねん。曾お祖父ちゃんが、お父さんから買おてもらった懐中時計、えらい大事にしはってた、て。アメリカさんの時計やけど、こっそり隠して持って、兵隊に行かはった、って。そんなん持ってたら非国民言われてまうから。桜の模様のある、きれいな時計やった、て」

 彼の気配が動揺しているのが伝わってきた。

「……曾お祖母さん、お元気なんですね?」

 確認するように、思わず訊ねた。

「元気や。家でいっちばん元気やで。東山で料理旅館をお祖父ちゃんとお祖母ちゃんとしてはんねん。常連さんしか来いひん店やけど」

「実は、懐中時計が今、当店に一つだけありまして」

 そう言って、僕は彼女に見せた。

「桜の模様や」

「ええ。もし、曾お祖母さんがこれを見て、気に入って下さったら、お嬢さんのご用意できる金額でお売りしてもよろしいのですが」

「え-?サプライズにならへんやん」

「でも気に入って頂けなかったら、困るでしょう?まして曾お祖母さんは、懐中時計に思い入れがあるようですから」

 彼女から、その店の場所を聞いて訪ねようと思ったが、彼女は自分で案内する、と言った。見知らぬ男が突然訪ねて来たら、曾お祖母さんがびっくりする、と思ったのだろう。

 あえて歩いて行く事にし、その道すがら、彼女は色々と話してくれた。

 旦那さんの出兵後、曾お祖母さんはこの街に戻って出産し、そのまま終戦を迎えたこと。生まれたのは男の子で、名前は父親から一文字貰って「悟」と名付けられた事など。

 古い家並みが続く通りの、他の民家と変わらぬ店先で、小柄な老婦人が割烹着を着て箒で玄関口をはいていた。灰色の髪は豊かで、実年齢より若く見えた。するとどこからともなく野良猫が現れて、婦人の側に座り、甘えるように一声鳴いた。それに気づいて彼女は振り返り「いらっしゃい」と温かな声で言うと、割烹着のポケットから懐紙に包んだものを取り出した。中に入っていたのは数匹のにぼし。この地域では、にぼしからダシをあまり取らない。おそらく猫の為に購入しているのだろう。それを手のひらにのせて猫の前に差し出すと、当然の権利と言わんばかりに、くわえて去って行った。それを穏やかな目で見送る。

『……りつ……』

 背後から、涙混じりのような、絞り出すような声が漏れた。まるで、その声が届いたかのように、老婦人は顔を向けた。そして僕を見て、驚いたように目を見開く。正確には、僕の背後を見て。

 次の瞬間、彼女はふわりと微笑んだ。

「お帰りなさいませ。長いお留守でしたね」

 空気が、震えた。泣いているような気配。思わず僕は振り返った。が、そこに彼の姿はもう無かった。

「いややわ-、大お祖母ちゃん、先週来たばっかりやん。長い留守なんて、おおげさな」

「そうやったなあ」

 近づいてきた孫娘に、のんびりとした口調で答える。この年で耳が遠くない、というのはすごい事だと思った。

「あのな、大おばあちゃんに見てもらいたい物があんねん」

「……いえ、その必要はなくなりました」

 そう言って、僕は懐中時計を差し出した。

「これは、貴女が持っているべき物のようです」

「……おおきに」

 彼女は愛おしそうに時計を両手で包み込んだ。

「……長生きはするもんやねえ、この年になって願いが叶うやなんて」

 僕は一礼して、その場を離れた。どこからともなく鐘の音が聞こえてきた。西の空が茜色に染まる。静かに一日が過ぎようとしていた。


 

例によって長くなりました。この話は一気に載せたほうが良いと思ったので、後編も掲載いたします。この話の僕同様、私も戦争を知らない世代です。その世代がこういう話を書いていいものかどうか考えましたが、ラストの曾お祖母さんの台詞がどうしても書きたくて、書かせていただきました。

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