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想いが空に届く日(前編)

 その日、この店には珍しいお客が現れた。

「このお店、懐中時計っておいてはりますか?」

 この街の北部の公立中学校の制服。骨董品に興味を持つ年頃とも思えないし、この年代からしてみれば骨董屋なんて、神社仏閣と同じくらい線香臭い場所だろう。

 だが「懐中時計」という言葉に、思わず僕達は顔を見合わせた。最も、僕が顔を合わせた相手は、女子中学生には見えていないだろうが。


 切っ掛けは真夏の最中、ふらりと青柳先生が訪れた事だった。

 色白で貧血症かと思うような男が、真っ黒になっていたので、海にでも行ってきたのか、と訊ねると

「パプアニュ-ギニアに行ってきた」

 という思いもかけない返事。彼の趣味はフィッシングで、知人のプロのアングラー(釣り師)について行ったのだという。ニュ-ギニアは、気軽にレジャ-として楽しめる程、設備等がまだ整っていないので、日本のアングラ-はとても少ないが、そのかわり超大物が狙えるミラクルフィ-ルドなのだそうだ。

 釣りが趣味の文学者といえば、真っ先にヘミングウェイが浮かぶ。彼は釣りだけではなく猟も好んだ、アウトドア派の文学者だった。とてもタイプが違うと思ったが、考えてみれば、日がな一日釣り糸を垂れ、思案にくれながら獲物がかかるタイミングを待つ、というのはこの先生らしいと言えなくもない。

「ついでにコ-ヒ-も買ってきた。暫く俺には、これを入れてくれ。それとあんたに土産だ」

 ゴロカ・コ-ヒ-豆と一緒に、意外な物を渡された。それは鎖もなく、動かなくなった古い懐中時計。状態は、お世辞にも良いとは言えないが、文字盤中央に桜の花のような彫金が施された、グリュエンの時計だった。

「ラバウルの雑貨店に置いてあった。普通の観光土産より、そういう物の方が面白がるんじゃないかと思ってな」

 相変わらずのマメさである。それを無意識にしているのだから、感心してしまう。彼が、特定の相手をつくらなくても女の影が消えないのは頷ける気がした。

 その日は珍しく、先生は遅くまで長居して帰って行った。久々の帰国で、とにかく話す相手が欲しかったのだろう。いつもより閉店が遅くなり、片付けをしている最中、ふとガラス障子を見た瞬間。

 心臓が止まるかと思った。

 ガラスに写っていたのは、大日本帝国陸軍の歩兵隊の制服を着た、若い男性。思わず振り返ると、ガラス越しに見たものが、そこに立っていた。

 僕が悲鳴をあげるより先に、彼はびしっと敬礼をし

『自分は、歩兵第41連隊所属歩兵上等兵 葛城大悟であります!この度、恥を忍んでの帰国とあいなり、誠に遺憾の極みであります!』

 霊とは思えない程、よく通る声で、そう叫んだ。僕は、思わずテーブルの前のイスに座ってしまった。考えるまでもない。原因は懐中時計だ。それにしても……と僕は嘆息を漏らす。どうせなら若い女性の霊の方が有り難いのに、何故「質実剛健」を地でいっているような男の霊なんだ……と。


 彼はこの街の出身で、出兵する前は東京で暮らしていたという。

 こうして、この世界にとどまっているのだから勿論思い残す事があるのだろうし、それは当然家族の事だろうと思った。が、彼はその事を一切口にしない。家族の事を話すのは、女々しい事だとでも思っているようだった。

 彼の時間は昭和17年で止まっているが、それから半世紀以上の時間が流れていることは、薄々感じているようだった。だが何となく感じているのと、実感するのとでは意味が違う。お客も来ない事だし、とりあえず翌日の午後、外へ出てみた。彼は懐中時計のあるところにしかいられないようなので、僕が持ち歩いたのだが

『……こ、この国の女子は……いつから裸のままで出歩くようになったのでありますか!』

 開口一番、彼はそう叫んだ。

 誤解のないように言っておくが、決して裸だったわけではない。キャミソ-ルにショ-トパンツという露出の高い服装だっただけである。

 だが、彼の時代は人前で女性が肌をさらすことは御法度だったのだろう。ミニスカ-トが流行したのは、確か戦後だったはずだ。

 それだけではない。「男が何故、女のように髪を伸ばしているのだ」とか「何故赤毛なのだ」とか「何故、皆ちんどん屋のような恰好をしているのだ」とか、答えようのない質問をしてくる。

「今の時代は、これが普通なんですよ。誰でも、こういう恰好をしています」

『自分の妻は、そんな真似は致しません!侮辱しないで頂きたい!』

 と、烈火の如く怒り出す始末。確かに彼の奥さんは、していないだろう。というか、していたら逆に問題だ。ご存命なら80を過ぎているはずなのだから。

 どこか変わっていない場所、と思い、寺なら変わってないだろう、と東山の麓の寺へ連れて行った。だが、この寺は観光のメインの場所だ。平日だろうと、どんな季節だろうと関係なく、山門までの坂道は芋洗いの状態で人が溢れかえっている。

『……祭りでもあるのでありますか?』

 呆れたように彼は言い、僕も夏の暑さと人ゴミに疲れ果てて、早々に退散した。どこか見晴らしの良い所と、街中を流れる川べりへと足を向けた。既に夕暮れ時となっていたが、料亭が並び、床が出ている風情は、そう変わりないと思ったし、丁度良いだろうと思ったのだが。これが大失敗だった。

 この川には名物がある。等間隔で座るカップル達だ。

 彼は、結婚していても妻が夫の三歩後ろを下がって歩くという時代の人だ。若い男女が並んで座り、人目を憚らない様子に、ふつふつと怒っているのが手に取るように伝わってきた。が、今更後戻りする訳にもいかない。とにかく次の橋の所まで、足早に通り過ぎようとした時。

 ピキッという音がするような空気。見ると、一組のカップルが、すっかり二人きりの世界に入り込んでしまって、キスを交わし始めた。

『こっ……こっ……こっ……この不埒者が!』

 思わず、鶏のコケコッコ-という鬨の声を連想した。また、本気で他人を「不埒者」と怒る声を生まれて初めて聞いた。

『そこに直れ!性根を叩き直して-』

 思わず僕は小走りになって、その場を離れた。わめきながら、嫌でも彼もついて来る。彼は懐中時計に憑いているわけだから。地縛霊ならぬ物縛霊とでもいうのだろうか。この大音響が聞こえるのが僕だけで良かった、と思う反面、何故自分だけなんだ、という理不尽さも感じつつ、店に戻った。汗をかいたが、決して暑いせいだけではない。

 彼は怒り狂うかと思ったが、予想外にも静かだった。開け放した坪庭の前に、脱力したように腰を下ろす。余りの変わりように、気分でも悪いのかと思ったが(霊に気分の良い悪いがあるのかは謎だが)、彼は背を向けたまま、ポツリと呟いた。

『自分が守った大義とは、何だったのでありましょうか』

 そして彼の姿は陽炎のように消えた。


 僕はパソコンでニュ-ギニア戦線の事を調べてみた。

 詳細な記録は見つからなくても、目に入ってくる情報は、過酷なものばかりだった。「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニュ-ギニア」と言われたように、想像を絶する悲惨なものだったのだろう。今日のカップル達と変わらない年齢の若者が、「お国の為に」という大義のために戦地へ向かう。その大義には「家族や大切な人を守る」という意味も含んでいたはずなのだ。

 彼の所属していた歩兵第41連隊はその後、レイテ島へ向かい、終戦の1ヶ月前に玉砕する。

 この懐中時計が、状態が悪いとはいえ、こうして残っていた事は奇跡なのかもしれない。人からの貰い物ではあるけれど、せめて縁のある人に渡したいと思った。が、東京といえば、大空襲があり、焼け野原になったと聞いている。正直、彼の家族が生きている保証はどこにも無いのだ。



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