1-1 出会い
「あの、失礼ですが此処はどこなのでしょうか?」
少女は可愛いらしい蒼い目をしており、口元は小さく微笑んでいる。年は玖狼と同じかやや下だろうか。少し幼さを残した笑みだった。少女の着ている服は桜柄の見事な着物だったので、まるで可憐な日本人形を見ているようだ。しかし日本人形には決して見えない点が一つだけあった。腰の辺りまで伸びた彼女の髪は、日本人形の様な漆黒の黒髪ではなく、綺麗なカラメル色をしていたからだ。
「……あの~?」
少女の遠慮がちな声に、全く質問に答えていなかった自分に気付く。
「あはは…、えーっとなんの用ですか?」
頬を人差し指でカリカリと掻きながら、少女に改めて内容を尋ねる。少女は少し懐疑的な表情を見せるが、小さく頷いて口を開く。
「ここはどこでしょうか? なぜ貴方はそのような可笑しな着物を着ていらっしゃるのでしょうか?」
ここがどこだって? 自分が可笑しな着物を着ている?
なんだ、この女の子は? 可笑しいのはアンタの方じゃないのか?
少女の質問の内容に思わず眉根が寄ってしまう。少女を疑わしい目で見てしまう。
しかし街中で道を尋ねられる事はまぁあることだし、よくみると少女は日本人に見えるようで外国人のようにも見える。少女の鼻立ちは高く、肌の色は日本人離れした白さだった。
そう考えると、彼女は日本文化の事を痛く勘違いした外国人観光客とも考えられる。でも何故こんな辺鄙な山頂に? 頭の中で色々な疑問が噴出してきているが、とりあえず聞かれていることに対して答える。
「ここは日本、福岡県の片田舎。この着物はシャツで下はズボン、ジーパンって―――」
そこまで言って玖狼は口元を押さえた。
どうもおかしい。シャツやジーパンは外国でも一般的な着衣だ。
なぜ、少女はこんな世界的にもオーソドックスな衣類を知らないのだ?
玖狼の頭の中がこんがらがってきたところに少女はまた不思議な言葉を呟く。
「よかった、ここは日本なんですね」
ええ日本ですが。
玖狼は心の中で独りごちる。
少女は小さく笑みを浮かべて両手を胸の前で合わせる。これは安堵の表情だろうか。
「…貴方は何処から来たのですか?ここからは私の知らない屋敷が多く見られるのですが……」
少女は直ぐに笑みを消すと、真顔を玖狼に向ける。
少女も何か不思議に思っていることは、その様子から間違いなく感じられた。ここはこちらも素直に答えておく。玖狼は起き上がると少女の隣に立ち、自分の家の方角を指差す。
「あのでっかいドームみたいな建物があるだろ? メロンパンみたいなやつ。あの辺りに俺の家があるんだよ。ていうか、この辺りの建物は全部君が見ている様な建物ばっかりだよ。俺は湊玖狼、君は?」
少女は玖狼の指先の彼方を見てから不思議そうな表情を浮かべる。
自分はそんなに変な事を言っているのだろうか、それとも先ほどの言葉が軟派に聞こえてしまって警戒でもされてしまったのか。
玖狼がそう思っていると、少女は正面に向き直り軽く頭を下げる。
「私は凛と申します。よろしくお願いしますね。…えーっと、みなと様」
「玖狼でいいよ。俺も凛って呼ばせてもらっていいかな?」
凛は少し玖狼の呼び名を迷ったようだ。それならこちらで指定してあげたほうがいいと思った。それに『様』付けなんて気色悪いし柄じゃない。まぁ可愛い女の子にそう言ってもらえるのは少し嬉しいけど、やっぱり柄じゃない。なにより名前の後に『様』とは……、少女は漫画かドラマでしか御目にかかれないような金持ちの子女なのだろうか。
名前で呼び合おうと提案した玖狼の言葉に少し意外そうな顔をした凛だったが、直ぐに小さく微笑むように、
「はい」
そう言って頷いた。その小さな笑顔は遠慮がちで控えめだったがとても鮮麗だった。そしてまだ引き気味の声で凛は言う。
「あのー、それで甲斐の国にはどうやって帰ればいいのでしょうか?」
凛の言葉に玖狼は面食らってしまう。
甲斐の国? どこだったかな、たしか山梨か長野の古い地名にそんなのがあったような気がするが。だったら普通、甲斐の国などとは言わず、山梨県もしくは長野県から話すべきではないだろうか。疑心になり思わず聞き返す。
「甲斐の国はここからじゃちょっと遠いなぁ。凛? 君は一体どうやって甲斐の国からこの福岡まで来たんだ?」
「さぁ? 湖に従者を連れ花摘みをしていましたら、いきなり深く青暗い穴に吸い込まれてしまいまして……。気がつけばこの場所にいたのですが。あっ、そういえばその時にこの石が光っていたような気が……」
凛はそう言い胸元にしまっていた首飾りの丸い石を玖狼に見せる。それを見た玖狼も思わず息を呑んだ。その石の色と輝きを玖狼は知っていた。玖狼にとっても大事な宝物であるあの石と形は違うが光沢といい色合いといい全く同じだった。
気のせいではないかと思い、玖狼はズボンのポケットをあさり、自宅の鍵を取り出す。鍵と一緒にぶら下がってついてきたそれは、やはり凛の持っている首飾りの石と同じような材質に思えた。玖狼は凛に菱形の石を摘んで見せる。
「……凄い偶然ですね」
凛が呟くように言う。可愛らしい大きな瞳が一層大きくなっていたので、凛も玖狼と同じことを思ったらしい。
「まったく」
凄い偶然だ。少しおどけた仕草で玖狼が返す。玖狼自身、形見の石については何も知らないし、知らなくてもいいと思っている。この石が形見である限り、世間的に価値があろうがなかろうがどっちでもよかった。それよりも目の前にいる可愛い女の子と自分が同じ石を持っていたという出来事のほうが世の中の価値観よりよっぽと大事だった。
しかし凛の話を聞く限り、彼女は迷子になっているようだ。花摘みに来て『お供』の者とはぐれてしまっている。彼女が帰りたいと言う場所は福岡から遠く離れた関東圏。日もそろそろ暮れてくる。とてもじゃないが彼女をそこまで連れて行くのに遣う時間もお金も用意できない。
「とりあえず……、家に来る?」
玖狼はそれが賢明と判断した。彼女の言動はどこかお嬢様的で意味不明なものを感じるし、今日は家で事情をじっくりと聞いて明日きちんと対応すればいい、何よりも女の子を独り置き去りにして帰るわけにはいかない。遠慮がちに言ったのは下心が無いことを強調させる為、本当にそれはどうでもいい事だが、玖狼は男らしくない行為だけは両親の影響なのか、自分の自尊心からか、軽い男と思われるのが嫌いだった。しかしそれでも少し軟派な言葉だったろうか。
俯く凛を見て玖狼は自己嫌悪になりそうになる。
「よいのでしょうか?」
予想に反した答えが返ってきた。しかも申し訳なさそうに聞き返してくる。こんな御時世、簡単に知らない人について行く事に不安はないのだろうか。世間知らずのお嬢様だってこれくらいは教えられているはずだ。
「問題ないさ、俺今一軒家で一人暮らしみたいなもんだし。姉さんがたまに帰ってくるくらいで部屋はあるからさ」
お嬢様のような言葉遣いをしておきながらも、お嬢様らしからぬ行動に疑点はあるが、ここは後で聞こうと決めていた箇所なので気にせずに言う。なにより軟派な男だと思われなかった事に玖狼は安堵した。
「そうですか、それでは御厄介になります」
凛は深々と頭を下げる。ここまできっちり礼儀正しくされると、礼儀など微塵も知らない玖狼が逆に頭を下げなければいけなくなりそうな気がする。
「そっ、そこまでしなくてもいいからさ」
焦っている自分の声が余計に恥ずかしさを助長する。
玖狼はそれを隠すように素早く倒れていた自転車を起こし、荷台に付いていた草を手で払い自転車にまたがる。
「よし、じゃあ後ろに乗って」
「えぇっと…、何処に乗ればよいのでしょうか?」
すると凛が首を傾げながら聞いてくる。そうか、この子は世間知らずのお嬢様の可能性有りだった。
「ここ、座ったら落ちないように俺の腹に両手を回して掴むんだ」
玖狼は自転車の荷台を叩いて座る場所を示す。凛はベンチに座るような形で荷台に腰を下ろすと、言われたとおり玖狼の腹に手を回し掴む。
「じゃあ行くよ」
凛の手がしっかりと自分の腹を掴んだことを確認してペダルを勢いよく回す。
玖狼を掴む凛の手に力が入るのが服越しでも分かった。少し急発進し過ぎたかと思った――。
そんな矢先、今度は背中に柔らかな感触が伝わってくる。
これはもしかして……
そう思うことを意図的に断ち切ろうとペダルを踏む。少し顔が熱くなったが気にせずに巧みなハンドルさばきで一気に山を下る。
黒い煙を出しながら、とろとろと走るトラクターを追い越し商店街に入る。少し速度を落として人の動きに注意しながら賑やかな通りを通過する。背後にちらりと目を配ると、凛は玖狼にとってはなんでもない商店街の風景を興味深そうに見ていた。客なんて全く入りそうに無い昭和の雰囲気を思いっきり残している潰れそうな喫茶店や、全国展開している大手ファーストフード店のどこにそんな要素があるのだろうか。途中に見かける横断歩道の道路標識や信号機なんかにも眼を輝かせて見ている。
家に着くと凛を降ろし、自転車を玄関横にたてかける。
鍵を取るためポケットに手を突っ込みながら、扉に手をかけるとその扉が既に開いていることに気付いた。
まさか……。
そろり、玄関に入ると女性物のスニーカーが脱ぎ捨ててあった。
まるで小学生が早く遊びたくて急いで学校から帰宅したかのような脱ぎ散らかし方だった。それを確認した玖狼は盛大に一つ溜息をつく。
凛を家に招きいれ、これをどう説明しようかと頭を抱えそうになりながらリビングのドアを押す。玖狼はすぐにソファーに寝そべっている女性を見やる。
ソファーは彼女の定位置だ。
「姉さん」
玖狼にそう呼ばれた女性はリビングのソファーに寝そべったまま手を挙げて返事する。
「いきなり帰って来て、一体どうしたんだよ」
「なにさ、自分ん家に帰ってきて何が悪いのさ?そもそもアンタのその言い方、アタシが帰ってきてたら都合が悪いみたいな言い方じゃない。普通『お帰りなさい』、くらい言うもんじゃない?」
「おかえりなさい」
「遅い」
相変わらず面倒くさい姉である。しかし姉の言うとおり、玖狼にとっては少々都合が悪い。
「そもそも、大学が夏休みなの。家に帰ってきて当然でしょーが」
姉はそう言いながら玖狼を振り返る。すると、気だるそうな姉の眼がパッチリと見開く。姉の視線は間違いなく玖狼の隣で日本人形のようにたたずむ可憐な女の子に向いている。
それを確信した玖狼は顔に手をあててうなだれる。
姉の顔が好奇に満ち満ちた表情に変わっていくのが心の内でわかる。
「どうしたのよこの子? もしかして、か・の・じょ~?」
くそぅ、やっぱりか。
「違うってば。彼女とは今日知り合ったばかりだよ。家に帰りたいみたいなんだけど家が関東の方らしくてさ、今日はもう遅かったからウチに泊めてあげるつもりだったんだよ」
姉の冷やかしに玖狼は少し動揺しながらも事情を説明する。
しかしこんな時、姉の冷やかしは続くのだ。
「きゃ~、クロー君のえっちぃ~! アタシがいない間に女の子連れ込んであんな事やこんな事しようとしてたんだぁ~。いやぁ~静香こわぁ~い」
「するわけないだろ! あんな事やこんな事ってなんだよ! なに変な事言ってんだ」
そう反論しながら横目で凛をみると、彼女は眉根を寄せて首を少し傾げていた。
玖狼がそれを疑問に思い「どうしたの?」と尋ねると凛は不思議そうな大きな眼を向けて言う。
「…あんなことやこんなことって一体なんでしょうか?」
その言葉に玖狼は絶句し天井を仰ぐ。姉はソファーの背もたれからひょっこりと顔だけ出してニヤニヤ笑っている。状況を楽しむ姉を無視して、玖狼は凛に一言言うのが精一杯だった。
「大丈夫、そんなに気にすることはないよ」、と。
玖狼が肩を落としていると、姉のにやついた視線が凛にいく。
「アタシは湊静香。こいつの姉貴だよ。あなたは?」
静香は己の性格が滲み出るような軽い挨拶をする。
「申し遅れました。私は凛といいます。よろしくお願い致します」
凛は静香とは対照的な丁寧な御辞儀で返す。静香は礼儀正しい挨拶に少し驚いた顔をしたが、すぐにまたにやけた顔に戻る。
「そんなにかしこまらなくていいわよ。まぁ、なんにもない家だけどゆっくりしていってね」
そう言いながら、静香はソファーから立ち上がる。
立ち上がった姉は弟の玖狼から見ても美人だと思える。女性にしては背が高く、体躯はスリムでなにより姿勢が良い。艶のある黒い髪は腰の辺りまで、顔立ちは鋭い眼に緩やかな口元をしている。いつもはだるそうに寝ているが行動する時は迅速かつ機敏。スーツを着て仕事をしていれば、殆どの人が外見だけで出来る女だと評するだろう。しかも想像通り料理以外ならなんでもできるのだ、アレは。
問題は内面にある。陽気で男勝り、腕っ節も玖狼が舌を巻くほどに強い。今まで静香と喧嘩して勝てた事は一度も無い。折角美人なのに彼氏ができないのはハッキリ言ってこの男より男らしい性格が原因ではないかと玖狼は思っている。それとも単に男に興味がないのだろうか。
しかし玖狼は姉よりもむしろ兄に近いこの性格が嫌いではない。玖狼がまだ小さかった頃、両親を亡くして淋しかった時に、いつも静香は隣にいてくれた。祖父が二人を引き取ると言った際、両親の思い出が残ったこの家を出たくないと癇癪を起こす玖狼をなだめながら、姉は玖狼と二人この家で暮らすと親戚中に見栄を張った。もちろん周囲の反対にあったが静香は断固として譲らなかった。
後数ヶ月で中学生になるとはいえ、まだまだ子供の静香に家計のやりくりや家事ができるわけがない。当然それが親族の総意だったに違いない。
しかし、静香はそれをやってのけた。自身も学校に通いながら幼い弟を高校に進学できるようになるまで育てたのだ。もちろん玖狼も料理や掃除洗濯の家事は担当した。
だが姉はもっと大変だったに違いない。静香もきっと哀しくて泣きたいくらい辛かったはずなのに、玖狼の前では絶対に泣き顔は見せなかった。そのことが玖狼には頼もしくもあり、また悔しかった。
そんな本人は自分の部屋へ戻るらしく、廊下へと続くドアを開けながら言う。
「今晩の献立は?」
聞かれたのは夕飯の中身だった。玖狼は冷蔵庫の中の材料を思い出す。人参、玉葱、ピーマンと挽き肉……。
「ミートソースパスタでいかがでしょうか?」
玖狼は首を少し傾げおどけた調子で答える。静香は玖狼に背を向けたまま手だけを挙げると、左右にひらひらと小さく振る。了解の合図だ。姉はそのまま振り返らず居間を出ていった。
玖狼はキッチンテーブルの椅子にかけられたエプロンを手にとる。
「という訳で俺は今から夕飯の支度にかからなくちゃなんない。とりあえずテレビなり、そこにある雑誌なりで時間を潰していてくれないかな?」
首をエプロンに通す。
「お手伝いいたします」
戸惑った表情で彼女は言う。その申し出に玖狼は頭を振り「いいから」と答え、冷蔵庫を開ける。野菜室からトマト、ピーマン、人参、挽き肉、玉葱とニンニクを取り出すと、銀色のシンクに敷いたまな板の上へと置いていく。
ふと、リビングに目をやると凛がまだ立ったまま呆けている。
「どうしたんだ?」
「えっと、ざっしとは一体なんでしょうか?てれびと言う物はどんなものでしょうか?」
玖狼は耳を疑った。
別に自分が変な事を言っているわけではない。やはりこの少女が変なのだ。会った時から多少変な事を言っていたが、問題ないと思っていた。しかし、ここに来て本気でおかしい事に気付いた。
この子は一体どんな環境で育ってきたのだろう?
そんな事を考えつつ、とりあえず凛の質問に答えておく。
「雑誌はそこにおいてある本の事だよ。テレビはコレ」
玖狼は雑誌とテレビを順番で指差しながら続けて言う。
「凛? 君は一体どんな環境で育ったんだい?」
失礼な事を言っているのはわかる。だが尋常ではないのだ。テレビなんて単語は小学生でもみんな理解できている。それを真顔で聞いてくるこの少女は一体どんな素性なのか。気になって仕方がない。
「そうですね。私の屋敷では夜このように屋内は明るくありません。蝋燭か油で小さな灯を作り、照らす程度です。そして私は今までこのような屋敷や道具を見たことがありません。正直驚きの連続で戸惑っています。ここは本当に日本なのですか?」
少し俯き加減で言う。凛なりに勇気を持って聞いたのだろう。顔が真っ赤になっていた。そこで玖狼は聞いてみる。馬鹿げているが、どうしても聞いてみる必要があるからだ。
「俺は今年で十七歳になる。西暦一九九四年生まれだ。凛は?」
凛は驚いた。小さな口は見事に大きく開き、大きく綺麗な蒼い目はこれも大きく開いていた。そして出ない声を搾り出すように答える。
「わ、私は一五歳ですが一五四〇年生まれです―――――」
彼女の戸惑っている表情に玖狼自身、どうしていいかまだわからなかった。