2-4 登校
憎い。
今私の心の内はこの言葉で埋めつくされている。
私の大切な人を奪ったアレが憎い。幸せを、生きている意味を奪ったアレが憎い。
どうすれば、この気持ちを沈められるだろうか。どうすれば、この哀しみが引いてくれるのだろうか。答えが出ないまま、私は夜の街を徘徊する。
もう日付も変わろうとするこの時間帯に、コンビニ前にたむろっている若者達を見る。彼等は駐車場に座り込み、周囲の目線もお構いなしでお喋りに没頭している。
なんて非常識で不快な奴等なのだ。なんで奴等ではなく、あの子があんな目に合うのだ。日頃の行いは明らかにあんな奴等よりも、あの子の方が良いに決まっている! あの子は辛い時も、楽しい時も、ずっと笑顔で私を受け入れてくれた。なのに、なんで無残に命を失わなければいけなかったのだ!
――憎い。
――憎い、憎い、憎い。
世の中は絶対に間違っている。どうして、あの子が死ななければいけないのだ。
私は再度奴等を見る。そして、その中の一人がしていた指輪を私は凝視する。中指で光るその青い石に私の理性はあっという間に吹き飛んだ――――
「さて、準備は出来たか?」
「すみません。もう少しお待ち頂けないでしょうか?」
「ん、わかった」
朝の支度を終えた玖狼は凛に声を掛ける。
今日から学校が始まり、静香も夜にはこの家を出て、大学の寮に帰ってしまう。凛にとっては本当の意味で、新生活の始まりであり、準備に手間取るのも理解できる。前日から制服の着方を静香に教授してもらっている。やはり、着物とは勝手が違うようで、昨日は留めづらいシャツの袖ボタンとネクタイの巻き方に、かなり四苦八苦していたようだ。今朝も凛が静香の部屋に篭ってもう一時間になる。女の支度は時間がかかるというが、これ以上待っていては遅刻してしまう。
「お待たせしました、玖狼」
玖狼がドアをノックしようとすると、凛がその扉を開けて出てくる。焦げ茶色のブレザーにチェックのスカートを履いた凛が出てくる。金髪の上に碧眼であるにも関わらず、随分と落ち着いた雰囲気を漂わせる凛を玖狼は思わず凝視してしまう。
「はいはい、ソコ、盛ってんじゃないわよ。さっさとガッコに行きなさい」
凛の背後から静香が出てくると、玖狼達に早く学校に行くよう促す。
「そんなこと言われなくてもわかってるよ。じゃあ、行こうか凛」
「はい」
凛に表情が悟られないよう、玖狼は玄関に向き直りながら言う。早足で玄関に向かう玖狼を凛がトタトタと少し駆け足気味に追いかける。
「あー、玖狼、今日アンタに話すことがあるから。ガッコが終わったら早く帰ってくること」
玄関を出る間際に静香が玖狼に直帰指令を下す。その声色は明らかに嫌気を含んだものだった。
ここ最近の静香は機嫌が悪い。まだ若いのに更年期障害を疑ってかかる気になりそうなほどに、だ。稽古の時も、食事中の会話でも言い方に棘のある――、いや棘があるのはいつもの事だが、言葉の節々にいつもとは違う違和感が付き纏う。凛がこれに気づいた素振りはない。付き合いの短い凛には分からずとも、静香の弟である玖狼には、言葉使いに微妙な変化があることがはっきりと伝わってしまう。
しかし、面と向かって不機嫌状態の静香に「お姉さま、いよいよ更年期ですか?」と尋ねようものなら、地球の真裏までぶっ飛ばされかねない。いろんな意味で家には帰って来れなくなりそうだ。ここは素直に従っておくのが吉だろう。
「わかったよ」
「はい」
玖狼は手を振りながら、もう片方の手で扉を開ける。凛も頷いてから後に続く。それを見届けた静香は一つ深い息をついてから呟く。
「あー、本当に面倒くさいわぁ……」
家を出ると、小さな商店街を抜け駅へ急ぐ。凛は新品の学生鞄を両腕で包み込むように抱えながら、玖狼の後に続く。
「凛、そんなに大事そうに持たなくてもいいんじゃないか? カバン」
「そ、そんな、滅相もありません。静香様から頂戴した鞄ですよ。大事に扱うのは当然のことでしょう」
「いや、カバンをそんな怪しげに持ち歩き方している奴は普通いないぞ……。大事な物だってことはわかるけど、両手持ちでも構わないからぶら下げて歩いてくれないか」
「そ、そうですか。わかりました……」
凛はそう言うと、両腕を下げ、鞄を自身の前にぶら下げるように持ち直す。元々が高貴な家柄である。幼いころから礼儀作法は叩き込まれてきたようで、歩く姿は気品と落ち着きがあり、こうして見ると、実に優等生といった感じがする。
「それと凛、暑くない? 今くらい上着は脱いだほうがよくないか?」
いくら二学期が始まったとはいえ、まだ残暑が厳しい時期だ。そんな中、凛はカッターシャツの上にブレザーを着ている。まぁ転校初日ということで、冬服で登校するように決めたのだが、ブレザーを羽織るのは学校に着いてからでもいいだろう。
「いえ、大丈夫ですよ」
そう言う凛は実に飄々とした表情だ。まぁ凛の普段着は今までが着物だったのだ。夏も長袖の分厚い生地に包まれた服装だったのだから、少々の厚着は苦にならないのだろう。
そろそろ、駅前の通りに差し掛かる。ここからは急に人の往来が多くなる。通勤するサラリーマンや、学生達からの視線が凛に集まることは最早間違いないだろう。
雪のように白い肌と、宝石のように輝く青い瞳。日本人離れしたその容姿は人々の目線を釘付けにするに違いない。
「あ、あの、玖狼……」
玖狼の思ったとおり、凛はその視線に怯えるように肩を窄ませて助けを求めてくる。
「大丈夫だよ。この人達の視線に害意は無いさ」
「では、どうして私が睨まれているのでしょうか?」
少し見当違いなことを言う凛に、玖狼は笑って答える。むしろ、睨まれているのは玖狼の方に違いない。
「ははっ、違うよ凛。この人達はさ、凛が綺麗だから思わず――」
――見惚れてるんだ。
玖狼はそう言おうとしたが、口を噤む。なぜなら、言い切った後に激しいほどの恥ずかしさが自身を襲う事に違いないからだ。なんてクサイ台詞を吐こうとしたのだと、顔面真っ赤になった玖狼は口をパクパクさせたまま、次の言葉が出せなくなってしまった。
「そ、そんな。私は玖狼が言うほど綺麗ではありませんよ」
しかし、その言葉は最早いってしまったに等しいほど、凛の耳に届いてしまったようだ。凛は頬を赤らめながら、謙遜するように言う。
「あ、いやさ、そんなことはないけどさ」
きっと凛にまで恥ずかしい奴だと思われたに違いない。そう思った玖狼は、顔真っ赤に弁解する。しかし、玖狼自身、何に対しての弁解なのか全く分かっていないくらい混乱していた。
「とにかく、早く学校に行かないと。切符の買い方はこの前教えた手順だから」
玖狼は足早に駅構内に入ると、凛に切符を買うよう促す。
「はい、この銀貨と銅貨をこの機械箱に入れればよいのですね」
自動券売機を指差しながら、奇怪な言い回しで凛が言う。言い方は別としてキチンと買い方は理解しているようだ。今時の女子高生が使わないような地味な濃緑色の布袋から小銭を取り出す凛の姿は少し年寄りくさい気もする。
「……玖狼、今何か失礼な事を考えていませんでしたか? それとも何か私の手順が間違っているのでしょうか?」
「いや、そんなことないさ。大丈夫、それより二百三十円の切符だぞ、間違えて買わないようにしなきゃ」
「え、二百三十ですか? 確か2は二、3は三、0は零……、ならばこれが正解でしょうか……」
凛は液晶パネルに映る見慣れないローマ数字と睨めっこしながら、そぅっとボタンを押す。
しかし、女のカンは怖い。そういった鋭さは静香から教えてもらったのだろうか? 玖狼は汗を拭いながら、凛の背後で切符の購入を待つ。切符の購入を終え、凛が玖狼の側に歩み寄るが、やはり周囲の視線が気になっているようだった。結局、その状態は学校に着くまで延々続いたのだった。