2-2 稽古
「ふぅ、やっと着いた」
玖狼はリビングのソファーに複数の買い物袋を置く。炎天下の中歩き回って、シャツも汗だくになってしまった。凛もタオルで頬の汗を拭っている。
「すみません、疲れましたか?」
凛が言いながら、タンスからもう一つタオルを出すと、玖狼に渡す。
「いや、大丈夫。いつもの姉さんの鍛錬に比べたら全然だよ」
疲れたのはむしろ、肉体的より精神的な方がずっときつかった。
凛は戦国時代、今から約五〇〇年前の人間だ。この世界に来て一週間が経ったとはいえ、現代社会の常識が直ぐに身につく訳ではない。今日の買い物も交通ルールや公共の乗り物の乗り方等、誘導しながら教えることが多く、ちょっとしたことでもかなりの時間を費やしてしまう。
帰ってきたのは夏だというのに、日が暮れそうな午後七時を回った頃だった。
すると、リビングの戸がゆっくりと動く。入ってきたのは静香だった。
「なによー、アンタ達もう帰ってきちゃったの?」
「これでも早く帰ってきたつもりだよ」
静香がガッカリしたような顔をするが、玖狼としてはいい迷惑だ。
「ただいま戻りました」
凛は大仰に頭を下げる。そこまでへりくだる必要もこの時代ではないのだからと、買い物の際にも散々言ってきたのだが、中々直らない。
まぁ、礼儀がしっかりしていると言われれば、これはこれで問題はないのだから、玖狼自身、もう指摘する必要もないだろうと思っている。
「さてと、今日の晩御飯はどうすんの? アタシ、今日はピザ食べたい気分」
「……店屋物でいいの?」
「いんや。玖狼が作ってよ」
「マジかよ?」
「マジよ。アンタ上手いじゃん。生地から作るやつ」
以前、レシピ本に書いてあったピザを作った時の味を静香は覚えていたようだ。しかし、生地の発酵時間を考えれば完成は早くても二時間はかかる。
「いいの? 出来上がりは九時を過ぎるよ」
「えっと、チラシは、と」
玖狼が言うと、静香はテーブル横の雑誌棚に置かれた店屋物広告の束からピザ屋のチラシを探し出す。どうやら、その時間までは待てないらしい。
「凛ちゃんはどれがいい? アタシはシーフード系かなぁ。……う~ん、クリーム系も捨て難い」
「私は特に……」
「ダメダメ、ちゃんと一人一つ決めるのよ。これは家長命令よ」
「なら、この『し~ふ~どみっくすぴざ』でよろしいでしょうか」
凛は遠慮がちに、そーっと人差し指でチラシのピザを指す。
「じゃあ、アタシはカニクリームピザ! 凛ちゃん、アタシのと半分こしようね」
「はい」
玖狼はそんな女の子二人のトークに耳を傾けつつ、携帯電話をポケットから取り出して電話する。
「もしもし、注文をしたいんですが。――えっと、シーフードミックスピザが一つにカニクリームピザが一つ。それと、イタリアンミックスピザをお願いします。サイズは全てMサイズで。――はい、以上です。場所は――」
注文をした玖狼は、携帯を折りたたみ、テーブルの上に置く。
「で、何時くらいになるって?」
「陰陽師(時)」
玖狼は少しとぼけてみる。
「……アンタ、これ以上ふざけた事言うと、叩くわよ。ただでさえ、お腹空いてんだから」
――ヤバイ、空腹時のお姉さまは大変気が立っていらっしゃるようだ。これ以上冗談を言おうものなら、確実にぶっ飛ばされてしまう。
「七時四〇分には来るそうです」
静香の問いに玖狼は直立不動で答える。全くとんでもないガキ大将っぷりである。しかし、いつもならこんな冗談をさほど気にとめない静香がここまで機嫌が悪いのも珍しい。
「あの、夕餉までまだ時間がありますか?」
そんなことを玖狼が思っていると、凛が遠慮がちにたずねてくる。それもそのはず、彼女は時計が示す時間がわからないのだ。表示が漢数字であればいいのだが、あいにく湊家にある時計は英数字の壁掛け時計だ。針にⅦ、Ⅷとか差されても理解できないのは当然だろう。
「半刻のさらに半刻くらいかな」
確か定時法で言うと、一刻は約二時間だったはずだ。凛ならば、この言い方でもおそらく分かってくれるだろう。
「では後『さんじゅっぷん』くらいですね」
玖狼の思惑通り、聡明な少女は夕飯までの待ち時間を口にする。
凛は容姿端麗なうえに頭脳明晰と、誰もが言われてみたいであろう四字熟語がぴたりと当てはまる。まだまだ常識不足とはいえど、物事に対する理解も早く、要領もいい。それに加え、落ち着いた物腰と冷静な判断力も兼ね揃えている。そう考えると、本当にぴったりなのは才色兼備なのかもしれない。
「さてと、ご飯が届くまで少し時間もあるし、一本やる? 組手くらいなら直ぐに出来るわよ」
玖狼がそんな事を思っていると、静香が立ち稽古の誘いをふる。
「やめておくよ。今から姉さんと鍛錬しちゃったら、折角のピザが食えなくなっちゃうよ」
「稽古してお腹空かせておくのも一つの手じゃない?」
「姉さんは、でしょ? たこ殴りにされる俺の立場は考慮してくれないわけね……」
「あら、それはアンタが未熟だからでしょ。やられたくないなら頑張んなさい」
「そ、そんな、玖狼だって頑張っているじゃありませんか」
凛が援護の一言をくれるが、玖狼にとっては援護ではなくこれは追い打ちの一言である。
「いいんだ、凛。俺はまだ弱い。でもそこまで言われて黙っちゃいられないさ。いいよ姉さん、一汗かこうじゃないか」
そう言いながらも玖狼は冷や汗をかいていた。
格好いい事をぬかしたわりに、稽古では静香に格好悪く叩きのめされるのだから当然だ。しかも守ると決めた女の子の目の前で、だ。本当に情けなくて涙がちょちょ切れそうだ。
だからといって、引くつもりは毛頭ない。静香の胸を借りるつもりで、全力で挑む。そうでなければ、自分達の為に散っていった人達に顔向けが出来ない。
――俺は強くなりたい。
玖狼は顔を上げ、二階の道場へ向かった。道場へ上がると道着に着替え、静香と対面する。左手を開き気味に前方へ突き出して構えをとる。
姉の静香は構えず自然体のまま、まっすぐと玖狼を見ている。
竹刀で向き合うときも、無手で立ち会うときも静香は隙を見せない。玖狼が見つけ出せないのかもしれないが、どこに打ち込もうとしても当たる気が全くしない。
「……ったく、見てるだけじゃ始まらないわよ」
静香はそう言うや、間合いを詰めてくる。静香は床面を力強く蹴ると、一気に玖狼の前へ現れると、そこから矢のような左掌底を繰り出す。玖狼は体をひねり、かろうじて躱す。
「……っ!」
しかしその一撃で静香が止まるはずはない。玖狼は転倒しながらも右の上段蹴りを静香に見舞う。が、静香はその蹴りを余裕をもって受け止める。
「アンタね、そんな軽い蹴りじゃ全く意味ないわよ!」
静香は叱責するように言い放つと、足払いをかける。
玖狼は残った片足で床を蹴ると、後方へ一回転して状態を起こす。
「ふぅ……」
一つ息を吐く。
「たくっ、『ふぅ』じゃないわよ。アンタ、マダマダだわ。ちょっとは反応しなさいよ」
そう言った静香は玖狼の背後にいた。
「っ! いつの間に――」
そこまで言って玖狼は口を塞がれた。
湊流歩術「雪牙」、静香は同じ港流の使い手である玖狼に対してなんなく技を行使してみせたのだ。背後に回られ、足元をすくわれた玖狼に静香は追い打ちをかける。
「いくわよ、お腹に力入れなさい。雪月花っ!」
相手の背後に回り込む歩術「雪牙」、そこから相手をすくい、蹴り上げる歩術「月牙」、そして足を鉞の如く振り下ろし、空中の相手を地面に叩きつける「落とし花」、これが静香の言った雪月花の正体だ。
玖狼は体の中心、腹に力を込める。しかし、とても耐え切れる衝撃ではなかった。前後から来る衝撃は玖狼の意識を刈り取るには十分な威力だった。
「あ~ぁ、だから言ったのに」
消えゆく意識の中、静香が嘆息気味に言う。
――やっぱりたこ殴りじゃないか
嘆きたいのは玖狼の方だった。