2-1 今までにない日常
夏休みも残すところ後一週間になった頃。
湊玖狼は困惑していた。
というのは、この目の前に座っている少女の処遇を決めなければいけなかったからだ。姉の静香は大学が始まれば、さっさと大学寮へと戻ってしまう。若い男女が二人きり、一つ屋根の下で新生活を始めようというのだ。これから、社会ルールや文明利器の扱い方等、教えなければならないことは沢山ある。
「玖狼、この『が・む』というのはなんでしょうか?」
時間は夜の十時頃。リビングのソファに両腿を揃え、気品の漂う座り方をしたまま、少女が玖狼に尋ねる。少女は小首を傾げ、テーブルの上にあるガムを指差している。
「ああ、こいつはね『食べ物』なんだ。口の中に入れて噛むと、甘い味がじわっと出てくる。食ってみるか?」
玖狼はガムの封を切ると、一粒少女に渡す。少女は親指と人差し指でガムを摘むようにして受け取り、そのまま口へと運ぶ。目を閉じてガムを思いっきり噛み始めた。
「……あら? おいしい」
「だろ? でも飲み込んだら駄目だからな。そのうち味がしなくなる。そうなったら口から出して、ティッシュにくるんでからゴミ箱に捨てるんだぞ」
「……ああ、あの柔らかい紙のことですね。わかりました」
このような会話が、帰ってきてからずっと続いている。傍から見れば、何を話しているんだと疑念の目で見られるだろうが、二人にとっては大いに真面目な会話なのだ。
玖狼に質問してきた少女の名前は桜城凛。大柄な姉の寝巻きを身につけているせいで少し小さく見えるが、碧眼、亜麻色の髪をした少女は、誰もが美しいと認めるほどの美貌の持ち主だ。年は玖狼の一つ下だが、これまで歩んできた人生のせいか、随分と大人びて見える。
つい最近まで、凛は戦国時代の姫様だった。
その凛が肌身離さず持っていた青い石が、時代を超え、玖狼と凛を引き合わせた。凛の世界で色々とあったが、二人は無事玖狼のいる時代へと戻って来られた。
しかし、これからが大変である。
「いやぁ、凛ちゃんの転校手続き済ませちゃったから、夏休み明けからのエスコートよろしくっ! ちなみにアンタと同じ学校、同学年で登録しといたぞ♪」
風呂上がりの静香が玖狼にそう言ったのは、つい先ほど。世間の常識を全く知らない凛をいきなり学校にブチ込むとは、この姉も考えものである。まぁ、手っ取り早く世間のルールや一般認識を覚えさせるには、いいのかもしれない。それに凛自身の物覚えも良い。もしかしたら、予想以上のスピードで社会に溶け込めるようになるのではないか、と玖狼は思っている。
しかし、それでも学校に通う前に身につけておきたい常識はある。それに加えて、二学期からは二人暮らしという危ない関係だ。姉の静香は、夏休みが終われば大学の寮に帰ってしまう。間違いが起こらないよう、今のうちにキチンと線引きを決めておかなければ……。
「はぁ……」
玖狼は小さく溜息をつくと、天井を見上げる。横目で凛を見やると、彼女は幸せそうにガムを頬張っている。
――あんなに嬉しそうにガムを食う女子高生なんて普通いないよなぁ
玖狼はそう思いながら、また思案する。凛の非常識ではないが、周囲の人達から『?』マークが飛び出すような行動は慎んでもらいたい。できれば日常生活にも早く慣れてもらえると、玖狼個人にとっても楽になる。そこでふと、脳裏にアイデアが浮かんだ。
「なぁ、凛。明日買い物に行かないか?」
「買い物、ですか? ええ大丈夫ですよ」
凛の服や日常雑貨も一通り揃える必要があるし、何よりも良い社会勉強だ。小さな子供でも一人でお使いできるのだ。お金の使い方や現代の人達との会話等、明日のショッピングで得るものは大きいはずだ。
「じゃあ、明日の朝九時には家出るからな。準備しとくんだぞ」
「……はい」
凛は口を隠しながら返事を返すと、ガムをティッシュにくるんでゴミ箱へと捨てる。顔が少し赤いあたり、端ないとでも思ったのだろうか。玖狼に一礼すると、そそくさと静香の部屋へと撤退していった。
「……俺も寝るかな」
玖狼も後頭部を掻きながら、部屋に向かった。
翌朝。ジリリ、という目覚まし時計に景気よく叩く起こされた玖狼は、眠い目をこすりつつ洗面台の前に立つ。歯ブラシを手に取り、窓際に目線をやる。空は雲一つない晴天を見せており、猛暑日を予感させそうな天気である。
「早くも外出したくない気温だなぁ……」
玖狼は歯ブラシを突っ込んだまま呟く。
「おいっ! 青少年が折角のデートの日に、なんてセリフを吐くんだい!」
勢い良く玖狼の背中を叩きながら登場したのは静香。
「ね、姉さん」
「いよぅ、玖狼少年。凛ちゃんから聞いたぞ。今日はお姉さんが詳細設計した、この計画表通りに行動するのだよっ!」
科学者を気取ったかのように指先を眉間に当てながら、寝巻き姿の静香は計画表を玖狼の前にちらつかせる。
静香の腰まで伸ばした漆黒の髪は艶やかで、長身で細身の引き締まったスタイルはモデル顔負けである。例え、モデルにスカウトされたと静香に言われても弟の玖狼は全く不思議には思わない。
「なになに――」
玖狼は訝しげな視線で掲示された計画書に目を通す。玖狼の眦が釣り上がる。
「なんだよ? この『ちゅ~』っていう単語は?」
「あら? 夜景をバックに洒落てると思わない?」
「俺達は買い物に行くだけだよ。なんで夜遅くまで街中を、しかも夜景が見えるところまでわざわざ移動せにゃならんのだ! 普通に朝出たら夕方には帰ってくるよっ!」
「え~、せっかく勇気を出してデートに誘ったんじゃない。もう少しだけでも勇気を振り絞ってもいいんじゃないの?」
「そんな勇気は要りませんよ。それにデートじゃないから、買い物だ・か・らっ」
玖狼はそう静香に言い放つと、コップの水でうがいする。タオルで口を拭うとリビングへ入る。
「あ、玖狼、おはようございます」
そう言う凛は、夏らしい太陽のシンボルが入ったTシャツと、ホットパンツ&ニーソックスといった彼女の趣向とはとても思えない服装をしていた。
「……っ!」
普段の凛からは想像も出来ない格好だったので、玖狼は思わずのけぞってしまった。
他にも理由はある。凛は腰のあたりまで流れるように伸びた栗色の髪と、海のように輝く青い瞳を持った美しい少女であるからだ。そんな可愛らしい少女が、このような露出度の高い服装をしていれば、健全な男子高校生なら誰だって眩しく映ってしまうに決まっている。
「……ああ、おはよう」
「あら? どうかしたんですか?」
かろうじて玖狼は挨拶を返す。目を逸らす玖狼に凛は小首を傾げるような仕草をする。
「いや、なんでもないよ。そろそろ行こうか」
玖狼が否定をしながら玄関へと足を運ぼうとする。しかし、その後に凛は続こうとはしない。
「どうした?」
疑問に思った玖狼が尋ねると、凛はクネクネと体を捻らせている。
「……あ、あの」
「んっ?」
「へ、変じゃないでしょうか? 私はこういった着物は着たことがなくて……、その、静香様に選んで着付けまでして頂いたのですが……」
そこまで言って凛は急に黙り込む。玖狼はそこで悟る。凛が恥ずかしがりながらも、わざわざ確認してくる内容とはおそらく――――
「ムラムラしましたかっ!?」
「うん、似合ってるよ。……って、えぇっ!? 似合ってるじゃなくて!?」
「えっ? どういうことでしょうか? 玖狼と静香様が言っている事が違いますよ? え、えっ?」
玖狼はそこで納得する。凛のこれらの言動は全て静香の入れ知恵だということを。
「……凛、そんなことは普通言っちゃダメだ。ダメなんだよ」
「そうなのですか? 玖狼の元気が出るから、と静香様が教えて下さったのですが」
なんて姉だ。これは由々しき事態である。あの悪戯心の塊のような女に、凛の指導を任せてはいけないかもしれない。
「凛、普通は男にそんな台詞を吐いちゃダメだ。そこは『似合っていますか?』が正解だと思う」
「はぁ……」
凛の頭上に『?』マークが浮びあがっている。見えていなくても見えてくる。彼女は整った眉根を中央に寄せ小首を傾げている。これ以上ない、判りやすい仕草だった。
「とにかく、今後はそういう言葉は安易に使っちゃダメだ。理由がわかってないなら尚更だ」
「では、その理由というのを教えて頂けないでしょうか?」
そう凛に言われ、玖狼は全身からいや~な汗が出てくるのを実感する。全くもって返答に困ってしまう。
「あ、ははっ……。それはオイオイ話すとしてさ、その服装は?」
玖狼は頬を指で掻きながら、ごまかす。凛の服装が気になってしまったのも理由の一つではあるが、これはおそらく静香のお古だろう。三、四年前に静香が着ているのを何度か目にしたことがある。
「そうですか……、こちらの着物は静香様から頂いたものでして」
案の定、予想した通りの返事を凛はする。
「えっと、それでなんですが……」
「んっ?」
「本当に変じゃないでしょうか?」
再度聞いてきた凛の質問は一般の女性誰もが一度は口にした事がある台詞だろう。玖狼は笑顔で答える。
「変じゃない、似合ってるよ」
本当は凛らしくない服装という事を玖狼は知っている。それでもこの少女に世の男性の殆どが「らしくない」とは言わないだろう。
凛が好む服装はこれから用意すればいいのだ。
ようやく買い物に出かけられる、玖狼はそう思いながら玄関の扉をゆっくりと開いた。
どうも結倉です。
大変時間をお掛けしましたがこれからゆっくりとですが2章の更新をしたいと思っております。時間が空くとはおもいますがどうか気長にお待ち頂けると幸いです。




