1-18 密
凛と密は屋敷から玖狼が青洲池と言っていたあの場所に向かっていた。非常事態になった場合はあの場所へ。作戦開始前、皆でそう確認した。背後からは雪村の剣をかいくぐってきた忍びが二人追ってくる。
「みっちゃん!あれ!」
凛から言われ密が前方に視線を移すと、玖狼が走ってこちらへ向かってくる。
二人から笑みがこぼれた。哀しいことが多い中で少しの希望が心を満たしてくれる。
「凛、無事か?」
「はい」
「密のほうも」
密は頷き背後に眼をやる。玖狼も気付いていたようで、刀を持ち直し構える。赤と黒の異様な色合いと雰囲気を醸しだす不思議な刀だ。
密と玖狼にとって二人の忍びは相手にならなかった。玖狼は素早く相手の懐に潜り込んで刀の柄で鳩尾を強打し、密は苦無を四肢に打ち込み相手の動きを奪う。
「貴様、その刀はどうした?」
振り返り歩み寄ってくる玖狼に密は訪ねる。
「ああ親の形見かな。ちょっといろいろと、ね」
哀しげな漆黒の眼が凛に飛び込んでくる。よく見ると玖狼は全身擦り傷、痣だらけでこちらに来た時に来ていた服はボロボロになっている。そしてなにより凛にとって気がかりだったのは玖狼から漂ってくる嫌な臭い。
血の―――臭い
「人を殺したのですか?」
口に出してしまった。
「殺してない。でも殺してるのと同じだ」
玖狼は悲愴な面持ちで言う。
「残酷な世界だ、ここは」
その言葉に凛の蒼い瞳が揺れた。そこからぽろぽろと大粒の涙が零れる。
ああ、この人を私は汚してしまったのか、純粋で優しくて太陽のようなこの人を、醜くておぞましい狂気の世界へ連れて来てしまった。そして彼はやりたくもない戦に駆り出され、優しさから人を殺める事もできない。殺しても殺さなくてもこの時代、敗北が死を意味することは分かっているのに……! きっと彼は今まで殺さずに倒してきた相手が、自分の所為で死んでいくことを責めている。
これから先、彼は自分のした事を悔いながら生きていくのだろう。私自身も同じ思いをしてきた。
それだけに彼が今同じ気持ちでいる事がとても、とても哀しい。
でも、少し嬉しい――――
「さぁ、早く行こう」
玖狼は凛の手を取り、走り出す。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
嗚咽が混じった声で繰り返すように言う。凛の握った手に少し力が入る。玖狼もそれに応えるように手に少しだけ力を入れる。その手の握り返しが、まるで「大丈夫」と返事をしてくれたように思えた。
「よく戻ってきてくれた」
「約束は破れない、だろ?」
「そうだな」
「雪村は?」
密は首を振り微笑む。その中に哀感が漂うのは気のせいではないはずだ。玖狼自身、胸の痛みを押さえつける。
「とにかく聞いてくれないか」
「なんだ?」
「凛の持っている首飾りの石があったろ? 俺も似たような石を持ってるのは知ってるよな?」
聞かれた凛は涙を拭きながらコクリと頷く。
「この刀は俺の石から現れた」
密は少し眉を上げ、驚いたような表情になった。そして遠慮がちに聞いてきた。
「帰るのか?」
密にはそのような予感がしたのだろう。
「ああ、多分凛の石は時代を超えて人を運ぶことが出来る。なぜそれが発動したかは分からないが、発動条件は持ち主の感情によるものが大きいと思う」
自分は守りたいものを守りたいと強く思った。その結果、この刀が現れた。
「では私が玖狼の時代へ行きたいと強く思えば……」
「上手くいけばな」
もうこれに賭けるしかない。どこに逃げてもいつかは追手に見つかるかもしれない。この世界で凛が平穏に暮らすことはもう不可能に近い。いつ現れるかも知らない敵に怯え、恐怖する生き方は凛には似合わない。凛の瞳と同じような蒼い空の下を、気持ちよく走らせてあげたい。それが玖狼の願いであり、きっと昌虎達の願いでもあるはずだ。
「あの池までもうすぐだ。着いたら試してみよう」
「はい」
凛のその返事がまるで停止スイッチだったかのように、密がいきなり足を止めた。
「?」
密を振り返り、歩み寄ろうとする。
「貴様は先に行け、どうやら雪村が相手をしていた追手が来ているようだ」
その言葉で玖狼は理解する。
雪村の死を。
そして密の覚悟を――――
「まだ距離はあるんだろう? ならさっさと移動して―――」
「考えろ! 我々は姫様を連れているのだぞ。その足では絶対に追いつかれる」
忍びとお姫様との脚力では、この程度の距離はあっという間に詰められてしまう。それを理解した玖狼は苦痛に歪んだような顔になる。
「駄目だ、皆で俺の時代に行こう。池まで行けば……、雪村もきっと来る」
それは多分、いや限りなく零に近い値で来ない。
密は我が子を見るような、優しい表情をする。
「もう分かっているんだろう?」
「っ!」
右手を玖狼の頬に伸ばしながら続ける。
「こうするしかないんだ。姫様を守るなら、貴様が一番適役なんだ」
凛は胸元で両の手をギュっと握り締めて震えている。凛には雪村と密の運命が分かるのだろう。それは玖狼にも想像する事が出来る。だから止めたい。行かせたくない……。それだけは勘弁してほしいと思った。
「何度も言っているが、貴方が優しいのはもう分かっているから。貴方の目を見れば、言いたい事も分かるよ。でも私は行けない、貴方と姫様を守りたいから」
玖狼の頬を撫でる柔和な表情の密に玖狼は硬直する。
まるで女神かと思うくらいに彼女を美しいと思った。
時間が止まればいいとさえ思った。
それほどに彼女の優しげな紅い瞳と、流れる漆黒の髪に見惚れた。
「貴方は私に縛られた世界で選択の自由を教えてくれた。私も貴方と一緒に貴方の時代へ行きたい」
なら一緒に行こう。
「でもそうすれば、恐らく皆死んでしまう」
分かってる。
「だからここでお別れだ」
嫌だ。
「分かって。貴方も姫様も、私にとってかけがえのない人なの」
イヤダ。
俺だってかけがえのない人をこれ以上失いたくない。昌さん達や雪村を失い、更に密まで見捨てろというのか! もう絶対に嫌だ! 俺は彼女を守りたいんだ! 例え俺が人を殺める事になっても、俺は彼女のためなら何だってやってやる! 追手の奴等も、幸隆からの刺客だって、全て俺がなんとかするんだ!
玖狼の感情は密のそれを全力で拒否していた。
――ぱちん。
玖狼が目の色を変えようとしたその時、密が玖狼の頬を叩いた。
「これを私の代わりに貴方の時代へ連れて行ってくれ」
密は困ったように笑いながら、腰に付けていた布袋から朱色の櫛を取り出すと、玖狼の手の上にそっと置く。
「私が生まれながらにずっと持っていた櫛だ。多分、親の形見」
なんだよそれ。しかも『貴様』だった俺の呼び方がいつの間にか『貴方』になっているところも苛々する。優しい喋り方にも。
「連れて行ってくれ、私を」
言いながら、密は玖狼を包み込むように抱きしめる。
真っ白になる。でも心の奥底が暖かくて懐かしい。
「姫様を、そして私を、よろしく頼むぞ」
玖狼から身体を離し、振り返りながら微笑む密。その真紅の瞳からこぼれる涙が太陽の日に反射して、密自身を包んでいるようだった。それはまさに光彩陸離と呼ぶに相応しい程に眩しく見えた。
いつもあきれた様に笑っていた口元を、猫のように釣りあがった紅い宝石のような瞳を、冷徹に見えるが内心はとても熱かったあの女性を――――。
走り去る密を滲んだ視界で追いながら、玖狼は櫛を握り締め、彼女の姿を心の中に深く刻みこんだ。
池に着くと、辺りを見渡す。木々や草花も静かに揺れているだけで人気はない。前に来た時と同じで落ち着いた良い場所だ。玖狼は凛の方に振り返る。凛はここまで走ってきたのが相当にきつかったのだろう、完全に息が上がっていて今にも倒れそうだ。
「大丈夫?」
凛にそう言いながらも辺りを警戒する。もしかしたら昌虎と雪村は絶対に来ないとしても半蔵や太一達なら、と少し期待をしていたが彼らの姿は見られない。表情に出ていたのだろうか、凛は呼吸を整えながらも眉を下げ申し訳なさそうに言う。
「い、今は私達だけでも無事に脱出できるように頑張りましょう」
「そうだ。皆の思いに応える為にも」
凛は胸元から首飾りを取り出して握り締める。
「強く、そして深く念じてみよう」
玖狼の場合はそうだった。
大事な人を守りたい、そう心の底から思ったときにあの刀が現れた。だから念じよう。
「帰るんだ。元の世界に」
「皆の想いに応える為に私は祈りましょう。玖狼の世界へ」
凛は目を瞑り黙祷すると、石が青く輝き始める。この光は玖狼が青洲池で見た光と同じで二人を包み始めた。すると足元に大きな穴が出現し、玖狼達は穴に吸い込まれる。
穴の中はあの時と同様に様々な時代の光景が、絵画の様に飾られては消えていった。
大きな船で大海原を行く冒険者達。
果てしなく続く外壁を作る民の姿。
壮大に降り注ぐマグマと噴煙にうろたえる人々。
玖狼は薄れていく意識の中で様々な光景を見つめていた。そして途切れそうになる意識が判然と戻された。
光景の中、紅い瞳の黒髪の女性が誰かに微笑んでいたからだ。幸せそうな、でも寂しそうな、でも、でも、でも……。目の奥が激しく熱くなる。手を伸ばしても彼女には届かない、薄れいく意識の中で櫛を握り締めて玖狼は誓う。
『……連れて行くよ、時を越えて君を――――』
玖狼は誓う。
どうも結倉です。
ここまで読み進めてくださった皆様には感謝です。
次回はいよいよ1章最終回となります。
もう少し、もう少しだけお付き合い願います。




