1-17 若武者
密が急ぎ屋敷に戻ると、雪村が屋敷前で待っていた。密は荒い呼吸のまま雪村に状況の説明をして、凛の部屋に向かう。途中すれ違う屋敷番に事情を聞かれたが、構っている暇は無い。「雪村に聞け」とだけ言って押しどけた。
「状況はどうなっているの?」
襖を開けると、凛が先ほどの屋敷番と同じ事を聞いてきた。
密は憂愁に閉ざされる凛を想像出来た為、報告するのをためらい、一瞬だが困惑の表情を滲ませた。その表情が全てを語ってしまっていた。
凛の瞳には明らかに歪んだ密が映っている。しかしその眼はどんな状況でも受け入れる意思を表明している。
くそ、なぜこんなにも哀しい報告をしなければいけないのだ! 歯がゆい思いをしながらも、密は口を開く。
「昌虎達、諜報部隊が全員討ち死に。玖狼は追手と交戦中です。追手を撒き次第、合流との事です」
昌虎達を『討ち死に』と表現したのは、彼らが決して無駄死にでないという事を密自身に言い聞かせたくて、口が勝手にそう言っていた。
「そうですか……。彼らが……」
凛は覚悟はしていたようで、蒼の水晶は今にも割れそうになっているが、凛は天井を仰ぎ、そうなるのを必死に我慢している。
「だからこそ姫様は生きねばなりません」
「みっちゃんもでしょう?」
ああ、この姫様はなぜこうも自分の事だけ考えてくれないのだろう。こんな自分を常に気にかけてくれて、友のように親しく笑いかけてくれる。この魅力が、優しさが、卑しい者達の悪意に弄ばれるなんて、もう私は考えたくない。
「ここから逃げましょう! 春日も植村も、もうおしまいです。上杉と北条の連合軍がこの春日へ侵攻しています。屋敷に火を放ち、姫様は自害したと見せかけます。見せかければ、もうこっちのものです。後は姫ではなく、そこいらの町娘として私と、あの間抜け面した阿呆と暮らしましょう」
その見せかけに相手が騙されるかどうかはもう関係ない。自分はこの方を守るのだ、そう決めた。
「さぁ、身支度は側女にさせておりますので、受け取った後、屋敷を出ましょう」
凛はコクリと頷く。密が荷を受け取り、凛に手を伸ばした瞬間、襖が勝手に開いた。
視線を向けると、そこには雪村が立っている。
「どうした? そこをどけ」
密が怪訝な眼差しを向けつつ、雪村に言う。
雪村は鎮痛な面持ちで黙りこんだまま動かない。
「幸隆様か?」
「こんなことをなさるのは、玖狼殿かとばかり思っていたのですが……」
雪村は玖狼のお目付け役だったのだろう。やはり幸隆は玖狼を信用してはいなかったようだ。疑心に囚われた幸隆には、信じられる人間が誰一人としていなかったのだろう。しかし密に幸隆を責める気は全く無かった。
この戦国の世、裏切りに怯え、他国の情報に耳を澄まし、その中から正確な判断を下せる武将が何人いるだろうか。密には全てはこの世界が悪いのだ。こんな世の中でなければ幸隆はきっと実直で誠実な主人であっただろう。
「はっ、確かにな。あの間抜けがやりそうな事だしな」
「貴女はこのような馬鹿げた行動はしないとばかり―――」
その瞬間、密が言葉を遮る。
「馬鹿げた行動しかないだろうが! 貴様が誰に仕えているかはわかる。だがな、私は姫様以外には仕えない! 姫様が私の全てだ! 主君の希望を叶える為には、もはやこれ以外、考え付かない!」
雪村は痛苦を味わったかのような表情を崩さずに応える。
「私だって貴女の気持ちは分からなくもない。貴女は『お前はまだ必要だ、まだこのような場所で終わる男ではない』そう言ってくれた。私は心底感動したのです。殿の前で見事なまでに敗北し、価値の無くなった私にそう言って下さった貴女は、とても眩しかった」
雪村からの言葉に密は軽く驚く。が、依然雪村の表情は厳しい。
「ですが、私は春日家の将であり、なにより武士です。何度となく考えましたが、主に逆らうことは出来ないのです……! お願いします、どうか……!」
「くどいな、私は武士じゃない。この方を救いたい、そう思った瞬間、もう私は忍びですらなくなったのかもしれない」
「玖狼殿の影響ですか……」
「どうだろうな」
密は肩を窄めて、やれやれとくたびれたように言う。
雪村が目を伏して、刀に手をかける。その刹那、密が背後を振り返ると、同時に苦無を投げた。呻き声と人の倒れる音がした。
ついに上杉・北条側の牙が我らが喉元に喰らいついてきたのだ。玖狼は果たして合流出来るのだろうか? 密は不安になりながらも、凛を引き寄せる。
「姫様! 大丈夫ですか?」
「は、はい」
引き寄せられた凛は素早く密の背後に回り込み、頷く。
「お互い、いがみ合っている場合じゃないようだな」
「敵方の忍ですか。どうやらそのようですね」
「とりあえず、ここからの脱出を最優先とする。お前との話はそれからだ」
「わかりました。凛様、少々苦しいでしょうが我慢をお願いします」
屋敷の後方から火がたったようだ。密が倒した忍の死体と、鼻を突くような煙が襖を破って飛んでくる。それを突破し、中庭に飛び出す。
「くるぞ!」
雪村に向かって忍刀が振り下ろされるが、これを難なくいなし、返しの一撃を繰り出す。密は凛を庇いつつ戦闘を行っているせいか、あまり攻撃的な手法が取れず、苦戦している。
護衛の任に一番やっかいなのが、護衛の対象者が戦闘に巻き込まれた場合だ。
無闇に武器を振り回して対象者を傷つけたりできないし、自分すら守りきれない状況下で対象者まで護衛しなければいけなくなる。
普通戦闘になった場合、五、六人程度が周辺で警護し、さらに対象者は安全区域にて待機するのだが、今は密と雪村の二人だけだ。護衛出来る者も、安全区域まで凛を誘導出来る者もいない。
畜生、他の警護の奴らは殺られてしまったのか? 左右確認してみるも、相手は十人程度目視出来るのに、味方は確認できない。
その確認の為に目を凛から逸らしてしまった瞬間、凛に凶刃が襲い掛かった。
ぬかった!
密は刀を放り投げ凛を抱きかかえるように庇う。
もう駄目だ! 密はそう思った。
「ぐわぁっ!」
聞こえたのは自分の叫び声でなく、忍の方だった。密が瞑っていた目をそうっと開けると、雪村が胸から血を滴らせながら立っていた。
「大丈夫ですか?」
幼さの少し残る笑みで、密に聞いてくる。ああ、と一つ頷きながら、雪村の胸の傷を確認する。傷口が溢れ出る血で隠され、その重傷さを窺わせる。
「ここは私が引き受けましょう。密殿は凛様を連れてお逃げください」
「駄目です! 雪村殿、貴方もご一緒に」
凛が雪村の傷口を抑えながら拒否する。
「いえ、私はもう足手まといです。それよりもここで凛様をお守りして、誇り高い武士として逝きたいのです」
「そんなっ!」
首を振り、目は敵を睨むように据えていたが、口元は笑っていた。
「……すまない」
「いいですよ、それに惚れた女性を守って死ねるのであれば、本望です」
凛と密が驚きの表情で同時に雪村を見る。
「ははっ、どうせなら言っておいたほうがいいかな、と」
乾いた笑い顔で雪村が一瞬目を合わせたのは、密だった。
「……私か?」
それしか言えなかった。答えることが出来なかった。
「今は結構ですよ。でも、もしお互い生きていられたのなら、返事を聞かせてくださいよ」
「わかった」
密は頷き、凛の手を引き屋敷の外へ駆けて行った。
二つの影を見送ると、雪村は刀を下段の構えに変えて相手を牽制する。
「生きて帰りたいなぁ」
困ったような、諦めてしまったような、残念そうな、そういった全てが入り混じった表情で、雪村はそう呟いた。そして忍達と向き合う。
「我は春日家随一の勇の者! 高内雪村なるぞ! 命の要らぬ者からかかってこい!」
凛呼とした若武者は人生最後の名乗りを上げた。