1-8 日常
空は快晴、空気は澄み、川のせせらぎと鳥の鳴き声が気持ちよい音楽のように聞こえる。
玖狼がこの世界にやってきて、一週間が経った。
この世界の環境に最初は戸惑ったが、なんとかなった。凛や密が手助けしてくれたし、礼儀作法は雪村に指導してもらい、粗相の無い振る舞いを覚えた。
ここは甲斐の国、春日家の領地である。
ここより西に行けば玖狼がタイムスリップしてきた野池があり、その更に西は植村家という領土らしく、南には北条家、北と東は上杉家と隣接しているらしい。
そして、この春日家は四方を敵に囲まれた小国だと言うことも分かった。
元々は植村家と春日家は桜城家の重臣だったらしく、桜城家が上杉、北条両連合軍に滅ぼされた際、桜城家の意思を継ぎ、残された領地の東を春日家、西を植村家で分割し、同盟関係を持って外敵から身を守ってきた。
だが、ここ最近では両家の仲があまり良好でないらしい。原因は分からないが、植村家と春日家の間に、なにかあった事は間違いないらしい。これは昌虎と、その部下四人に情報を集めてもらった。
玖狼個人はそのような事情はどうでもいいが、この世界の情勢は知っておいて損はしない。凛と玖狼に降りかかる危険は、なるべくなら回避していきたいのだから。
今、玖狼は屋敷の中庭で雪村と稽古をしていた。二人は互いに木刀を持って、打ち稽古に勤しんでいた。
雪村はあの御前試合から、しょっちゅう玖狼に稽古をつけてもらいたがっている。まるで、兄や父に教えを請うような目をして、玖狼に要求してくる。
玖狼自身も体を鈍らせたくはないので、いい稽古相手と思い、快くそれを受けている。
屋敷の縁側では凛と密がお茶を啜りながらこちらを見ている。
桜色の綺麗な着物を着たお姫様は、その着物が霞んで見えるほどに可愛らしい。大きい蒼い目、腰の辺りまでのびたカラメル色の髪は、日差しに反射して一層美しく見える。
雪村の打ち込みを受けながら、じっと凛を見ていると、目が合う。凛は少し頬をあかくして、小さく微笑みかける。
この笑顔は少し反則に近いなと思いつつ、玖狼も笑顔でそれに応える。
その笑顔を向けると同時に、腹部に強烈な衝撃を受ける。
意識を前に向けると、雪村の木刀が玖狼の腹を直撃していた。意識が凛の方に向きすぎて、雪村の突きを受け切れなかったのだ。
玖狼は腹を抱えて倒れこむ。
そんな玖狼に雪村が慌て、駆け寄る。
「玖狼様!大丈夫ですか!」
「う……うん、だ……い……じょうぶ」
なんとか片手をあげて応える。
凛も慌てて玖狼の元に寄り、玖狼の背中に手を当てて心配そうにしている。玖狼は痛みに歪んだ顔を無理やり笑顔に矯正し、凛に「だいじょうぶだよ」と語りかける。
縁側では湯呑みを持ったまま、密がカラカラと笑っている。
「あんまり姫様ばかり見ているからだ。いくらお美しいからといって、稽古の最中によそ見をするなんてお前は馬鹿だなぁ」
「やっかましい」
反論も無く、こんなチンケな言葉しか発生できない。
この女を相手にしていると、姉を相手にしている気分になってくる。
しかし、この忍び装束のニヤケタ女も姫様と同じで美しい。
後ろでまとめられた髪は漆黒で艶やか、いつもは吊り上がった紅い目は笑うと優しい感じになり、とても魅力的になる。凛とは美しさの質が異なるが、この女も十分に綺麗である。
姉の静香と同じで黙っていればいいのに、と心底思う。
「しかし本当に大丈夫ですか?」
不安そうに聞き返してくる少年は、まだ幼いながらも凄い剣術の腕前だ。
春日家では一、二を争うほどの実力でありながら、服装もきちんとしており、礼儀正しい。
学校でいうと、文武両道の優等生といったところであろう。
玖狼は立ち上がりまだ幼さの残る少年を見て言う。
「いてて、なかなか鋭い一撃だった。いい勉強になったよ。油断大敵、よそ見厳禁だね」
その一言を聞いて、密が一層カラカラ笑う。
「あっはは。これじゃあどっちが稽古をつけているのか分からないなぁ」
玖狼は恨めしそうに密を見る。
そんな玖狼を気にせず密は笑い続ける。
「みっちゃん、玖狼がかわいそうではないですか」
凛が慌てながらフォローにはしる。
『かわいそう』、その言葉が玖狼の心に重くのしかかる。
本日止めの一撃だ。肉体的ではなく精神的にKOだった。
「姫様、さすがです!」
密は玖狼の表情からそれを察したらしく、笑いが止まらないようだ。
止めを刺した張本人は意味を理解できていないらしく、首をかしげ、密にどういうことか確認をとろうとしている。
しかし、こういう雰囲気は嫌いでない。気心の知れた、信用の出来る人達との暮らしは穏やかで心地の良いものだった。
凛と密とはあれから何度か話をして、雪村や昌虎には玖狼が違う世界からやって来た事は伏せておくことにした。
摩訶不思議な情報の流出は避けたほうがいいとの判断である。もちろん雪村達がそれを外部に漏らすことなど、玖狼はありえないと思っている。
「それでは私はこれで失礼致します。ご教授ありがとうございました」
雪村が申し訳なさそうな顔で一礼して、踵を返す。
玖狼は片手を挙げてそれにかえした。
「師匠が弱いと部下は気を使って大変だな」
ようやくカラカラとした笑いがおさまってきた密が、腹を痛そうに抱えながら言う。
「本当にやかましい奴だな」
「油断する貴様が悪いからじゃないか」
「くぅっ……」
先ほどと同じ事を言われて、また唸る。
一週間が経ち、ここの人達とも上手くコミュニケーションがとれてきた。
密と凛は今のようなおどけた会話も出来るようになり、昌虎や雪村とも稽古を通じ、徐々にだが打ち解けてきている。
玖狼自身、段々とこの世界に慣れてき始めている。だが、それと同時に自分のいた世界の事も気になっている機会が減っているのも確かだ。
静香はどうしているだろうか、かなり心配しているだろうか、それとも怒っているだろうか、と考えてしまう。いずれにしても、帰ったらシバかれることも覚悟しておかないといけない。そんな事をふと考えては諦めていく。
考えたところで意図的にタイムスリップなど、出来るはずもない。今はこの世界で一生懸命生き延びるだけだ。生きていればどうにかなるかもしれない、もしかしたら帰れるかもしれない。
唸りながらもこんな事を考えてしまっている自分に苦笑する。
「こら、みっちゃん、玖狼に失礼ではありませんか」
「これは失礼しました。以後気をつけます」
密は涙目を拭いながら、反省のない声色で返事をする。
「凛、こいつは全く反省していないぞ。俺が同じような失敗をしたら、絶対また笑う。まぁ、俺も密がなにかやらかしたら盛大に笑ってやるけどな」
「私はお前のような失敗はやらないぞ」
「どうだか。密の言うことは嘘と本当が半分半分だからな」
「そんな事はないぞ。私がいつ嘘などついた」
頬を少し膨らまし気味に反論してくる。
雪村の技量の見極めや、幸隆とのやりとりの件で、かなり足を引っ張られた玖狼だが、密はそれに気付いていなかったようだ。
こいつはかなり空気の読めない女だ。
「お前、もう少し場の空気を読む方法を学んだほうがいいぞ」
玖狼は目を細めて密に自覚を促すが、当の本人はやはり気付いていないらしく、首を傾げたままになっている。
「まぁみっちゃんの場合は思ったことを一直線に言うところがあるけど、それは相手を思って言っているのですよ」
凛がフォローを入れる。密は腕組して「そうだそうだ」と頷く。
「まぁ確かに悪気というか、そういう類のものは感じないけどさ、ほら状況判断とか相手の技量の把握とか、忍としてそれはきちんとやれてないとやっぱりまずくないか?」
玖狼が言いたい事が凛にははっきりと分かったらしく、諦めた笑顔でそれに応える。
さすがに密も玖狼の意図が理解できたようだ。
過去にも同様の失態をやらかしていたらしく、顔を真っ赤にして俯いてしまっていた。そして、密の握りこぶしが玖狼に飛んできた。
「っつ!」
玖狼は思いのよらない攻撃を、モロに顔面に受けて倒れこむ。
「わるかったなぁぁぁ! 空気も読めず余計な一言を言ってぇ! 相手の技量も計れなくてさぁ! どうせわたしは忍しっかくだよぉぉ!」
密はそう言いながら、両手で顔を隠し、走り去ってしまった。後には顔面を手で覆った玖狼と、苦笑いを浮かべた凛が残された。
「しかし、ちょっと言い過ぎたかな。後で謝っとくべきだろうか」
玖狼が頬を擦りながら呟く。
「そうですねぇ。まぁお互い様って事でいいじゃないでしょうか。みっちゃんもそんなに気にしないですよ。玖狼が思っているより、みっちゃんは玖狼の事を信頼しているようですし」
「そうかなぁ。いまいち実感ないよなぁ。だって、会う時はいつもさっきみたいに言いあいになるし」
「喧嘩するほど仲がいいんですよね」
「本当かよ」
「本当ですよ。それに私、この空気好きですよ。和やかで穏やかな日常が。そう、ずっとこのまま続けばいいのに」
凛は笑顔で言う。
「玖狼がいて、みっちゃんがいて、雪村殿や昌虎さんもいて。皆で一緒におしゃべりして、食事して、こんなに楽しいことは久しぶりです」
「そうだな。俺も皆といると楽しいな。近所の人もわざわざ野菜や西瓜を持ってきてくれるし。ホント、ここの国の人達はいい人ばかりだ」
玖狼も笑顔で返す。
「俺、ここでやっていけるか正直今も不安だけど、凛がいて俺をいろいろ助けてくれる。密や雪村それに昌さん達も。俺、凛を守ってやるって約束したけど、今はなんか逆の立場だよなぁ……」
「そんなことはありませんよ。私も玖狼の役に立ちたいのです。それに玖狼は私との約束をちゃんと守ってくれたではないですか。皆を不幸にさせないやり方で、きちんとやり遂げたではないですか」
凛は頬を朱らめながら、しかしはっきりとした主張をする。
「私は玖狼が約束を守ってくれて嬉しかった」
「俺は自分の為にやったことだよ。俺がこの時代でやっていくには凛の助けが必要だったし」
「それでも玖狼が私を救ってくれたのは変わらない。それに雪村殿や昌虎さん達の御命も救ってくれたではないですか」
「いやぁ、雪村と昌さんの助命嘆願は単に人が死ぬなんて、嫌なことだし……、それに昌さんなんか凛を最初は人買いに売ろうとしたんだぜ。そんな人間助けるなんて、普通変だろう」
「でもそんな人達でも、玖狼は救ったではないですか。私はその心が嬉しい」
「まぁ、どんな人でも死んじゃうのはいい気分しないしさ。それにもう知っている人がいなくなるのは勘弁して欲しいだけなんだ」
頭を掻きながら言う。凛は優しげな細い目を玖狼に向けている。
まるで自分の気持ちを理解してくれているようで、心の奥がこそばゆかった。
「ただの自己満足だよ」
玖狼は凛の視線に耐え切れず、上を向いてそう呟いた。天を仰ぐ玖狼を見た凛の目は輝きを増していた。横目で凛をちらちらと見ながら言う。
「なんだよ。なんかおかしいか?」
「いえ、なにもおかしくないですよ」
「じゃあなんでそんなにニヤニヤしてるんだよ。密や姉さんじゃあるまいし……」
「いえ、玖狼が本当に優しくて、一緒にいるとつい頬が綻んでしまいます。私も玖狼のようにありたいと思えて」
「ふーん、俺のようにねぇ」
「はい。私はこの世界の在り方に納得が出来ていませんでした。母は父と出会って、恋をして一緒になったと聞きました。」
「ふーん」
気のない声で返すと凛は続けて言う。
「母は前に言ったように、遠い所からこの国にやってきて父と出会い、恋をして私が生まれたそうです。ただ、母のような状況は極めて珍しいんですよ。この世界では夫婦になる相手は、本人の意思なんて関係ないんです。誰かが勝手に決めて、押し付ける……。私の場合もそうです。後一年もすれば知らない人と結婚して、後は子を産み、老いるだけ。父と母は私の意思を極力尊重してくれて、私はあの頃が一番幸せでした。しかし父と母がいなくなってからは、もう自分の意思で自由に生きることを諦めていました」
なんとなく分かる。玖狼のいた時代の少し前までは、まだあった習慣だ。出会いも別れも、自分の意思では決められなかった。特に女性はそうだっただろうと思う。
「俺はそんなこと今まで考えた事もなかったよ。自分の事は自分で決める事が当たり前だったから」
玖狼は幼い時に両親を亡くしてからは、姉に迷惑をかけないよう自分で出来ることは自分でやってきた。
「そうなんです。玖狼は自分の歩く道を自分で決めている。私にはそんな玖狼がとても眩しく見えるのです。そして玖狼の選択する道はいつも私の思っている事と似ていて……。わ、私も玖狼のようになりたいとまた思うように……」
凛は少し恥ずかしげな顔になり、言葉に詰まる。上手く言葉に出来ないようだ。そんな凛を見ながら語りかける。
「俺のようになることはないよ。凛は凛だ。君になればいい。少なくとも俺の前では自分の言いたいことは言えてるし、我儘だって言っていいんだ。俺は凛が困っていれば協力するさ。友達だろ?」
「友達?」
ポケっとした顔で凛が聞き返す
「そう、友達。友達が困った時や悩んでいる時は相談に乗って、手伝ってやるんだ。友達が哀しい時は一緒に悲しんで、楽しい時は一緒に笑うんだ」
玖狼の言葉を聞いた凛は目筋に涙を浮かべながら笑顔で頷いた。哀しい涙でないことはもちろん分かる。
「はい、友達です。ありがとう玖狼。私、今幸せです」
玖狼は笑顔で言う。
「うん、幸せな時は笑顔になるんだよな」
父と母がいた時に感じた暖かくて懐かしい、本当に幸せな一時だった。
どうも、結倉です。
なんとか週末更新に間に合いました。
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