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坂上真子の物語 1/7

受注管理の仕組みをデータベースで作り直すと社長が言った。新しいノートパソコンには設計図だか仕様書だか知らないけれど、アイデアツリーの複雑で細かい書類が作られていた。書類のあちこちにクエスチョンマーク。斉藤さんや山根さんや工場長が次々と呼ばれてマークを消していった。そして新型の高性能なパソコンが運び込まれた。


「じゃあやるか。真子ちゃんよろしく」


社長は 98NOTE LaVie で島田君はPC-9821V200/M7で開発を行う。だから両方に FileMaker Pro 3.0J がインストールされた。

私の役割が何かと言うと今日からしばらくは美香さんのところで Excel 95 の受注管理の仕事を学ぶのだった。経験を新システムの違和感チェックに活かすというのだから責任は重大である。



JUCHU.XLSは社長が作ったものに島田君が改良を加えていた。まず受注一覧シートの列の並びは自由に変更できるようになった。印刷前に並び順をチェックする処理を加えて実現できたらしい。さらに受注一覧シートはCSVファイルをVBAで読み込めるようになっていた。CSVで書き出して修正したものを戻す斉藤さん専用の機能だ。注文番号の重複をチェックして上書きするのが難しかったと島田君に聞いた。

そして最後の変更点。入力シート全体でフォントがおかしなことになっていた。MS ゴシックだ。


「これなら間違えて全角英数字で入力したときすぐにわかるでしょう。念のためね」

「目がチカチカします」

「慣れるよ」


美香さんは平気そうだ。これは新システムで再現しなくていいよね。



翌日からは旧システムと新システムのあいだを行ったり来たり。細い指が画面の要素を次々とポイントする。


「このフィールドの位置をもうすこし左に。見出しの文字と揃えてください。枠線の色が違います。このボタンの次がこのボタンでしょう。カーソルの移動距離を同じにしないと使い勝手が変わりますよ。この文字はもっと小さくしてください」

「順番に直すからテキストにまとめておいてよ」


えー、面倒だなあ。



そんな感じで日々は過ぎて新システムが完成。日曜日に全員が休日出勤してお披露目がされたのだった。ちなみに工場では毎日、SEISAN.CSVを作って事務所に送ることになったのだけど、ExcelテンプレートのフォントをMS ゴシックにしておいたら不評でした。ごめんよ。


翌日からは Macintosh Performa 588 の前に戻ってウェブサイトの手直しだ。だけど不思議なことに、関係のない仕事に駆り出された気はしなかった。見た目と使い勝手の関係をたくさん学んだ。この経験は本来の業務に活かせると思った。



代休の平日休み。昼前に起きて食事を作る。トースト、ウインナー、キャベツの炒め物。食後にはコーヒーを淹れる。近所の喫茶店で買ったストロングブレンドをハンドミルでゆっくり挽いてカリタでドリップ。目が覚める香り。


コーヒーを手に部屋に戻り、ローンがまだ半分残っている自分の Macintosh Performa 5410 でメールを読む。窓の外の陽があたたかだった。

明け方に自動受信したメールは10通。2通はまぐまぐのファッション関係のメルマガ。服を買う余裕なんてないけれど流行に興味くらいある。6通が美術メーリングリスト。ルネサンス彫刻について議論になっているようだ。そっち方面はあまり知らないのよね。残り2通は珈琲メーリングリスト。最初のは教えてくれてありがとうと書いてある。何を教えてもらったかはスレッドを見返さないとわからない。最後はオフラインミーティングの提案。


```

Subject: [coffee-ml:2450] Starbucks


こんにちは。

銀座のスターバックス日本一号店に行ってみたいのですが

ごいっしょしていただける人はいますか

注文がむずかしそうで勇気が出ません!


MANABU

```


そういえば前にも話題になってたね。いつでも行けると思っていたから、かえって機会を作れなかった。日時が合うなら参加してみようかな。


```

Subject: [coffee-ml:2451] Re: Starbucks


土日なら参加できます

いかがでしょう


makochan

```


MLに参加している人は研究者や経営者も多くて、そういう人はシグネチャーに細かく書いている。私の場合はSo-netの個人アカウントだから社名を出したりはしない。聞かれたら答えるくらいだ。


スティッキーズにスターバックスと書いて右上に貼り付けておく。昨年は喫茶店巡りが企画されたけれど参加者が集まらず実現しなかった。今回はどうなるのだろう。むしょうに気分転換がしたかった。



コーヒーを飲みながら、Eudora-Jの高校フォルダを開く。大塚先生、ケイコちゃん、キタロー君。森と川に挟まれた小さな町の高校時代がよみがえる。


普通科美術コース、通称は美術学科は美術の時間が多めの普通科だ。デッサン、パースの取り方、道具の手入れ、美術史、さまざまな名画鑑賞。限られた時間で基礎は教えるから、あとは自分次第だと言われていた。自分次第と言われても自分が何者かを知らない。どうしたらいいかわからないではないか。中途半端で無責任な学校だと当時から思っていたよ。


卒業後に大学に進学したいとは思わなかった。美大に挑戦する同級生を見て、その情熱が自分にないことを自覚した。家からもお金がないと言われていたし、それなら地元で就職でもするか。それも無理だった。世は不況のどん底で仕事を選ぶどころか選択肢がひとつもない。

結論はモラトリアムの延長。新宿の美術の専門学校に2年だけ通って自分の道を探す。学費と生活費の半分は親が出してくれる。自分名義の貯金で足りない分はアルバイトをする。そう決めて住み着いたのは私鉄沿線の古い神社のある町。広大な鎮守の森が故郷の森を思い出させた。



コーヒー豆が残り少ないことに気が付いてダッフルコートを羽織った。今日はそれほど寒くないので前は止めなくていい。いつもの買い物散歩コースは往復で1時間くらい。休日でぼんやりした頭をすっきりさせたい。


新宿の専門学校にはいろいろな人がいた。美大を受けるための予備校として通っている人、大学や会社をなんらかの事情で辞めて暇になった人、そしてもちろん高校新卒者もたくさんいた。けれど、みんながみんな生活が苦しい。外食の習慣がないのでいっしょに食べに行ったり外で会ったりすることもない。ここもなんだか中途半端だ。

ここではデッサンの基礎技術をやり直して色彩学を学んだ。シルクスクリーンと木版画もすこしだけ。空き時間には生活費を稼ぐアルバイト。ティッシュ配りにパンフレット配り。倉庫の仕分けと夜間清掃。学校の都合が優先だと思っていたので長期は難しかった。

そんなある日、フロム・エーで見かけたのが比野文具の募集広告だった。応募した時には、そのまま社員になって、卒業直前の学校もやめちゃうなんて想像もしていなかったの。


アルバイト事務員募集。備品整理や清掃、パソコン入力など簡単な仕事です。



目的地は階段の上の喫茶店。地元ロースターの豆を使っていて小売りもしてくれる。普通の豆なんだけど回転が早くてブレンドが自分好みで値段も高くない。400gを購入してバスケットに入れる。


並木道を歩いているのは高齢の人ばかり。平日の昼間だもんね。まっすぐ神社の境内に入っていって冬のイチョウを見物すると、だんだんと気持ちが落ち着いてきた。


21歳の誕生日はそんな静かな一日だった。


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