白い鳥 8
最奥にあった重い枷を外すようにして紡ぎだされた言葉は、それでも一度軽蔑される覚悟が出来てしまえば、思ったよりも簡単に口に出来るものだと初めて知った。
目を瞑れば瞼の裏に浮かぶ、いくつもの枯れ枝にぶつかる衝撃とフロントガラスに走る無数の煌き。
バックミラー越しに見た、般若のような麻衣子の顔は今でも忘れられない。
麻衣子のことを、心底怖いと思った。勘弁してくれ。とも思った。
でも――…こうなった今ですら、彼女のことを”憎い”と思ったことが無い。
殺されるような事をされたのに、どこかでそれを受け入れている自分に、本当はずっと気がついていた。
般若の面は、怒りと悲しみを体現しているという。
麻衣子の瞳にも見つけた、強い焦りと悲しみ。そして、なによりも強い恐怖。
「――…に……殺された?――殺されて、こちらの世界に来た……?」
目を開ければ、呆然とつぶやき続けるレジデの姿が目に入る。
「人見知りで体も弱かった彼女はね、ずっと入退院を繰り返しながら、”自分が不甲斐ない”と嘆いていたんだよ。私も少しでも良かれと思ってサポートしていたし、最初は彼女もそれを望んで、喜んでくれていた。――…でもそれは間違った関係だった。」
ぽつり、ぽつりと話す私に、レジデが混乱した顔のまま尋ねる。
「どうしてですか?」
「私は職務を超えて、彼女の生活に食い込んでしまった。無意識に私は彼女の家庭に寄生して、彼女の帰る場所を奪ってしまったんだ。」
今思えば、母親が入院して不在を悲しがる子どもたちに、自分の家族を重ねていたところが確かにあった。
意識しなくても、麻衣子の子どもは他の子達よりも熱心に見ていたし、送り迎えも当然のようにした。
母親不在で困っている麻衣子の旦那の相談に乗りながら、寂しいから先生一緒にご飯を食べて!!と、ねだる子ども達と外食した日もあった。
最初は恐縮しながら喜んでいた麻衣子だけれども、母親失格だと嘆いていた彼女は、熱心に世話を焼く私をみて、一体何を思ったのだろう。
それは人によっては、感謝されるだけで終わったことなのかもしれないし、実際、人から見て後ろ暗いことなんて一つも無かった。勿論、麻衣子の旦那と浮気をしていたわけでも、麻衣子に内緒であの家族の世話をしていたわけでもない。
――けれども同じく不安定で、心がささくれ立っていた麻衣子には、そうは取れなかった。
自分の留守中に、旦那と子供の世話を甲斐甲斐しく世話をして、母親のポジションに入り込むオンナ。――…いつしか不自然な私の姿は、そう見えてたんじゃないだろうか。
決して悪意はなかった。けれど、善意だったら良いというわけじゃない。
「もちろん、どんな理由があれ人を殺していい理由になんてならないよ。――…そう思う反面、私がそこまで追い詰めたんだと思えば、私のした事はあまりに業が深い。」
きりりと唇をかみ締めれば、麻衣子の小さな子ども達の顔が脳裏にちらつく。
――あの子達は、今どうしているだろう。
私が失踪したと騒ぎになれば、園から麻衣子の異常行動も警察へ伝えられただろうし、警察は無能じゃない。幾らだって、推測はつくだろう。
道路に散乱しているであろう私の車の破片や、ひしゃげたガードレール。ボンネットが壊れた麻衣子の車。誤魔化し切れないカケラ達。
彼女があのまま一緒に崖から落ちていなかったとしても、何食わぬ顔で元の生活に戻れているとは到底思えない。
麻衣子の家族や、異世界は不安だと思いながらシルヴィアと一緒にいた時に奥底で感じていた、あの麻薬のような強い安堵感と安定感。
自分の家族から母親を奪った私が、自分の家族と麻衣子の家族を重ねて、寄生して。――結果、母親をあの子達から奪った。
逆恨みで殺された私が被害者だと――私だけが被害者だと、そう思うには――…あまりにもこの事実は重かった。
麻衣子のことを思い出すと感じる、強い強い恐怖心。
けれどもその後ろには、いつだって抑えきれない、強い罪の意識が存在していたのだ。
「いくつもの家庭を壊してこちらの世界に来た私が、また自分の不注意で国家スパイ容疑をかけられ、シルヴィアから安穏な生活を奪い取った。――…これでどうやって、私一人逃げ出せるというの。」
思わず無意識にこぼれ出た発言に、ついにぐらりと世界が揺れて目頭が熱くなる。
困惑したままのレジデの視線を避け、睨みつけるようにして双子の月を仰いで、その熱を散らしても、揺らぐ月は変わらない。
いっそ一人、この世界から消えてなくなって、事がすむならそれで良い。
けれども、”鳥”として国家機密の一部を担うことになった私がいきなり消えて、それで周りが無事に済むわけが無い。
――もう、元の世界に戻れない。
――こちらの世界で、今までのようにいることも、出来ない。
まるで、どこの世界からも弾き出されてしまったような、強い寂寥感の闇にのみ込まれる。
壊すだけ。そう。いつだって私は壊すことしか出来ないのだ。
ならば、いっそシルヴァンティエ姫の立場を壊し、せめてシルヴィアの生活を死守して、レジデとフォリアを解放しよう。
水が高いところから低いところへと自然と流れるように、胸のうちに湧き上がった考えは、すっと自分の心になじみ、とけて消える。
心が決まってしまえば、元の世界に戻れないことなど、取るに足らない小さな事だ。
何故、こんな簡単なことに気がつけなかったんだろう。
グラスの残りを一気にあけてから、
「なんだか夜遅くまで、つきあわせてごめんね。明日も早いんでしょう?」
混乱したままの風情のレジデに緩やかに小さく笑って、レジデのグラスと自分のグラスをカウンター裏のシンクに置く。
ここはもう良いから、ゆっくり休んで。と、硬い表情のレジデに背を向ければ、くっと思いもよらない強い力がかかって、再びソファに引き戻された。
「トーコ。色々言いたいことや、伝えたいことがあります。けれども、……正直今は、上手く説明する自信がありません。」
がしりと腕をつかまれ、間近に見上げる彼の真摯な瞳には、強い困惑や決意、焦燥が入り混じったような複雑な思いが入り混じる。
「けれども、これだけは言わせて下さい。自分のせいでシルヴィアを苦しめたと思っているならば、それは違います。」
「………え。」
つかまれた腕の強さが、ともすれば逃げ出そうとする私の意識を引き戻す。
「時間の経過、人との出会い。それらがもたらす変化は当然のことで、普遍的なものでもあります。そこには良し悪しなどはありません。」
「………。」
「シルヴィアの事だってそうです。もしかしたらトーコがいなければ、過去の治療の弊害で、彼女は近々一人で誰の目にも触れず、倒れていたかもしれません。それは誰にも分からない。――良い方に転んだか、悪い方に転んだかと言うのは、受け取る側の主観でしかない。」
「………。」
「トーコは――…きっと、早く家庭を持った方が良いです。」
思いもかけない発言に、俯きかけていた視線を上げれば、彼は柔らかそうな毛並みをふっくら持ち上げ、柔らかな微苦笑を浮かべた。
「償うことや、後悔することで、トーコがこれ以上何かを得れるとは思いません。――…もう十分じゃないんですか。」
その意外な発言に、唖然と目を見開く。
…十分?十分って、何?
「記憶を無くしていても、トーコが愛されて育ったと言う事は分かります。」
思わず小さく首を振って、拒否の言葉を紡ぎだそうとする私を遮るように、そうレジデは力強く続ける。
言われた言葉を何度も何度も反芻して、それでも上手く飲み込めない私の視界で、柔らかで暖かな毛並みが揺らぐ。
「ねぇ、トーコ。もしトーコのオカアサンが生きていたら、何度でもトーコを助けるためにその身を投げ出すのではないでしょうか。――…それこそ、一片の迷いも無く。」
その言葉に、氷が解けるように、ぽろりと睫にひっかかっていた何かが転がり落ちた。
「きっとそれは、母親にならなければ、本当の意味では分からないんだと思います。」
強く握り締められていた腕から力が抜け、ふわりと頬を暖かな手がぬぐう。
次々とこぼれだす何かが、胸をふさいで言葉にならない。
「トーコの気持ちは分かりました。不本意ですが、今回の一件は協力させて頂きます。」
けれども、トーコ。これは飽くまで、シルヴィアへの懺悔や償いなどではなく、新たなシルヴィアの生活を守るために戦うのだと、そう思って下さい。
そしてもう私に謝らないで下さい。
それが私が貴方を許す条件です。
額に落とされた暖かな唇と、その静かな言葉に、またどうしようもなく熱く世界が揺らいだ。