白い鳥 7
レジデの言った通り、葉山家の五人兄弟は、比較的早くに母親を亡くした方だろう。
まだ末の双子の弟が小学校に入るか入らないかの年、家の隣に建てられたばかりの、木造戸建ての火事に巻き込まれた。
原因は不審火。
隣家は全焼。
そして幸い火は回らなかったとは言え、風下にあった我が家は、その毒を多量に含んだ煙の直撃をまともに食らった。
夕暮れ時の乾いた冬の空いっぱいに広がる赤い炎と、どんどん濃くなる夜空と同化するような黒煙。
そんな中、懸命な救助によって唯一助かったのが、私。
救出に向かった母親が持っていた、綺麗な空気の入った袋を口に当てられ、私の命は延命された。
「その事件のショックか、煙による神経障害のせいか。……私は火事の記憶と母親の記憶が一切無いんです。」
部屋の中央にあるミニバーに移動して、二人分のグラスを出しながら、そう淡々と話す私に、レジデの困惑した声が返る。
「事件の記憶が無いのは、分かるのですが、……母君の記憶も無いのですか?」
「――…うん。」
火事が不審火であったこと、幼い子供を残して母親が無くなったこと。そしてちょうど大きなニュースも無かったせいか、この事件はそれなりに世間を賑わせた。
不審火の犯人を私が見ているんじゃないかという、警察の当然の捜査が子供心に負担だったのか、ワイドショーに目をつけられた不運だったのか、それとも幾つかある他の心当たりが原因なのか。 それは今となってはわからない。
ただ、私は事件を境に、母親の記憶をどんどん無くしていった。
母親の面影をすべて忘れるような年齢では無かったのにもかかわらず、私には今も母の記憶が無い。
「――だからね。シルヴィアに母親の面影を見ているんじゃないかと言われれば、分からないと言うしかないんですよ。」
そう言いながら小さく肩をすくめると、カクテルの氷がカラリと小気味の良い音を立てて、夜の部屋に響く。
「それは、――…大変でしたね。」
「どうだろう。」
どういって良いのか逡巡した後、心のこもった一言をくれた彼に、小さく小首をかしげて返答する。
気がつけば、レジデがまとっていた強い怒りにも似た感情は、何処かに鳴りを潜め、まるで深海の底にいるような、静かな時間だけが二人の間を流れる。
「本当に大変だったのは、小さかった双子の弟たちや、帰宅が遅れて自責の念にかられた兄と姉、それに5人もの子供たちを残された父親だったと思うよ。」
今回のように、何か外傷があっての記憶喪失ならば、わかりやすく、まだ話は違ったのかもしれない。
けれども事件直後は母の名を泣いて呼んでいた私が、ある時を境に、遡ってどんどん母親の記憶を失って行く。――その様子に、残された家族は驚き慌てた。
結局、神経障害による記憶喪失にストレス性のショックをも複雑に絡み合った私の記憶喪失は、どれだけ時間がたっても思い出すことは出来ず、重度の障害者にならなかった事だけが、家族にとって唯一の救いとなった。
「だからシルヴィアに母親の面影を見たかと言われたら、分からないとしか言いようが無いの。 ――…でも、まぁ、そもそも銀の糸を束ねたようなシルヴィアに、黒目黒髪の母親の面影を見るというのは無理があるし、なによりthe干物女のような生活をしていたシルヴィアが、専業主婦であった母親に近いとはあまり思えないかなぁ。」
重い雰囲気を振り払うように、すこし軽く茶化して言う。
「もしかして……だからトーコは、子ども相手の仕事をしていたのですか?……何か母君のことを、思い出せるかもしれないと思って。」
「そんなんじゃないよ。」
小さく笑って答えてから、こちらを見る静かな琥珀の瞳に、思いがけず、つるりと言葉がこぼれた。
「――…うん。でも、そうだね。もしかしたら私が保育士になったのは、必然だったのかもしれない」
「必然……ですか?」
「うん。」
幼い弟たちを残して、自分の命を捨ててまで救ってくれた母親の存在を忘れた。
今でこそ、小さな小箱に押し込められているその感情は、当時はまだ胸の中を荒れ狂い、うねりを上げ、幾たびも私を暗い嵐の海に追い落とし続けた。
いっそ消えて無くなりたい。何度も何度もそう思ったのを覚えている。
それでも、”貴女が生きることが母親の供養になる”と言われてしまえば、その呪詛のような言葉を断ち切る事も出来ず、死ぬことも生きることも罪悪に思った時期が確かにあった。
もがいて、もがいて、苦しんで。その感情の荒波をやり過ごすと、今度は強い虚無にとらわれる。その繰り返し。
そんな日常が、長く続けられるわけが無い。
アイデンティティというのは、個人の記憶や経験を元に構築していくもの。
幼少期の大きな基盤の一つである「母親の記憶」を急激に無くしたせいで、当時の私は自分というものを見失った。
そしてそんな心が壊れそうになった私を救ったのは、意外な事に、父でもカウンセリングの先生でもなく、――…母親を恋しがって泣く小さな弟たちだった。
――姉ちゃん。お腹減ったよぉ。
学校にも戻れないまま、日に日におかしくなっていた私を責めることなく、姉ちゃんもいなくなっちゃうの?と、遠巻きに心配していた弟たちが、ある日、私のスカートを握り締め、そう言って泣いた。
震える手で二人を抱きしめた日の夕方を、小さなの手のぬくもりを、私は今でも覚えている。
そこから少しずつ家の中の家事を覚えることで、小さな弟たちの面倒を見ることで、私は胸にぽっかりと開いた、その大きく欠けた欠損を埋め始め、自分の時間を取り戻した。
父も兄も姉も、そんな私を喜んでくれた。
暫くはそれで良かった。
「今思えば、事故の後は、小さい弟たちの面倒を見る事で、自分を保っていたんです。」
だれかから必要とされている、絶対的な安心感。
それは荒れ狂う嵐の夜の、一条の光だった。
けれども、私が大人になったように、弟たちだっていつまでも小さな子供では無い。
大きくなって少しずつ私の手を必要としなくなった弟達や、進学・結婚していった兄や姉。
きちんと傷と向き合わないまま、ただただ家事に、育児に没頭し、家の中で役に立つことが、存在意義に置き換わっていた私には、それは恐怖でしかなかった。
このままじゃ、弟たちを押しつぶす。ある時、そう気がついてからの行動は早かった。
レジデに言った通り、保育士の仕事を選んだのは、ある意味必然だったのかもしれない。
経済的に自立しながら、子どもに触れて、誰かの穴を埋めて、役に立って。
そうしてようやく私の虚無を宿した穴を隠すことが出来ていたんだと、自分を誤魔化していた全てを失った今ならば分かる。
「フォリアにもね、シルヴィアへ何故そこまで肩入れをするのかと言われたよ。」
フォリアの名に、もふもふのレジデの耳がきゅっと動く。
馬車の中で。星空の馬上で。
形を変えて幾度も聞かれたその問いに、きっと今ならば答えを返すことが出来る。
私はシルヴィアに依存していたのだ。
毎日彼女の不得意な家事を補って、色々な料理を試したり、仕事を少し手伝ったり。
やればやるだけ喜んでくれて、異世界生活の不安は確かにあれど、あの古塔での生活は、充実していた。幸せだった。
また、そうする事で、私があそこにいて良いのだと思えた。
そしてそれは、私が長年自分の家族にしていたことと、寸部変わらない。
だからシルヴィアの家で家族のように一緒に暮らしながら、私は彼女に依存した。
私がここにいて良いのだと、自分を肯定する為に。
向き合えない自分の虚無を見ない振りをする為に。
そこまで思って、苦い笑いがこみ上げる。
「トーコ?」
「私はきっと、自分がまた誰かの生活を大きく崩壊させてしまったことが、どうしようもなく耐え難かったんです。」
「――…?」
戸惑った琥珀の瞳に映る、自嘲の笑みを浮かべる自分。
こうやって向き合ってみて、まったく。 結局私は、どこまで行っても自分の事しか考えてないんだと、思い知る。
本当にシルヴィアを助けたかったのか、自分が助かりたいからシルヴィアの助けを求めたかったのか、分かったもんじゃない。
「私はあまりにも多くの人達の生活を、大きく崩壊させてしまった。 ――…だから、私は殺された。」
「………え?」
これ以上無いほど目を見開いたレジデに、もう一度、ちらりと小さく笑う。
「私の運転していた車が崖に落ちたのは、言ったよね。」
茶色の毛並みが、呆然と頷く。
「あれは不慮の事故じゃないの。私は麻衣子に殺されかけて――明確な殺意で崖から突き落とされて、こちらの世界に来たんだよ。」
「――…!!」