白い鳥 3
王宮から帰って泥のように眠った私が、ふと目を覚ましたのは、草木も眠る丑三つ時。
一日がかりで色々頭に詰め込んだ後、今度は王宮へ行って、緊張しながら右往左往。
ようやっと開放された頃には、心身ともにくたくたで。
どうやら風呂上りの肉厚のバスローブのまま、ベッドにもぐりこんで熟睡してしまったらしい。
ふわあと大きくあくびをして、体を伸ばせば、ぐきゅ~~~~と鳴るお腹の音が辺りに響く。
そう言えば、夕飯を知らせてくれたり、一生懸命着替えさせてくれようとしてた気がするけど、どうしても起きれなかったんだっけ。
そう思って辺りを見渡せば、部屋の片隅のサイドテーブルには夜目が覚めた時用にと、軽食の乗ったトレイが置いてあった。
中々メイドさんを呼べない私に、こうやって細かいところまで気を使ってくれているのが、ありがたいやら、申し訳ないやらだ。
折角だし、少し宿題を進めようかな。
ふもふもと、ひとしきり飲み食いしてから、試験直前のように唐突に思いつく。
暗記物は回数目にした方が絶対覚えるし、仮眠もとってお腹もいっぱいになった。やれる内にやっておこうかな。
そう思って、持ち帰ってきたカードのデッキを手に取ってから、部屋に地図が無いことに気がついた。
しまった。これ、地図がないと片手落ちなんだよね。
明日の朝、メイドさんたちに用意して貰うかな…。
そう思ってから、ふと考え直す。
地図の一冊ぐらい書斎か遊戯室にはあるだろうし、自分で取りに行っても良いよね。
まぁ……たしか、前回それで痛い目みてるよなぁと、ちらりと灰色狼の姿が頭を掠めるけれど、そこはほら、この館で短剣突きつけられたり、首絞められたりってことは無いだろう。
そこまで考えてバスローブから着替えてから、私は夜の廊下に滑り出た。
さてと。
書斎か遊戯室どちらに向かおうかと考えて、近いほうの遊戯室に足を向ける。
遊戯室は日当たりの良い、少し長めの部屋。
中庭を囲むようにL字型に折れていて、部屋の端にある扉側には、ビリヤード台のような重厚な卓上球技のテーブルが広く取ってある。
構造上見えない部屋の反対側には、カードやチェスのようなゲームが楽しめる場所と、書棚や居心地の良い小さな暖炉。
そして中央にあたる直角の部分には、小ぢんまりとしたミニバーなんかもあって、中々お洒落な部屋だ。
そのちょっとした読書用の書棚に、見やすい大判の地図があったはず。
そう思って静かに扉を開け部屋を進んで、書棚の前に立つ。
たーしーかー、この辺かな?
こちらの世界で、詳細な地図はもっとも高価な書籍の一つ。各地が細かく載せられている地図帳は、大抵仰々しいほど重い。
薄暗い部屋の中でしゃがみこんで、適当に下段の書籍に手を伸ばしかけて――ふと、何か空気が微かに振動するような感覚を受ける。
二度、三度と感じるそれを、不思議に思うのと同時に、ふいに、隣の部屋が以前ロワン老魔術師と対面した応接室だと気がついた。
あ、れ?……。もしかして――…誰か、起きてる?
この部屋の小さな暖炉の影には、隣の部屋の声を拾う管が隠されていると、ロワン老が来た時に教えてもらったっけ。
そう思ってよくよく見れば、暖炉の飾り石の一つだけ、微妙に色が違う。
まるでシルヴィアの館で見たような魔石みたい――そう思って、深く考えずにその石に指を伸ばした。
すると、
『どうして、トーコを王宮の陰謀に巻き込んだんですかっ!』
その瞬間。耳に入ったのは、これ以上無いほど怒気を孕んだ、聞いたことも無い怒鳴り声。
レジデ……?
『それはさっきも説明したろう。陛下御自らのお出ましだ。――…確かに謀ったのはあの狸かもしれんが、選んだのはトーコだ。それをどうして阻止出来る。』
そしてそれに対する声は、配管越しで幾分くぐもってはいるけれど、予想通りのフォリア声だ。
その突然始まった二人のやり取りは、まるで予想もしていなかったタイミングで、いきなりテレビがついたかのような衝撃を私に与え、唖然とする。
『それは詭弁でしょう!』
『ならば、どうしろと?まさか、陛下との間に割って入るわけには行くまい。』
『……フォリア。――私は貴方という人を良く知っている。本気で彼女を関わらせたくないのであれば、如何様にもやり様はあった筈です。違いますか。』
『これはこれは。お前にそこまで褒められるとは、思わなかったな。』
一転して、押し殺したような声で話すレジデと、いつもと同じ飄々とした口調のフォリア。けれどもそのフォリアの声も、いつもと違って少し重い。
『ふざけないで下さい!フォリア。私は納得がいきません』
『そうは言っても、本人が選んだことだ。他人がとやかく言うことじゃないだろう?』
どんどん剣呑になる二人の声に、思わず居ても立ってもいられず、立ち上がる。
ちょ、ちょっと!止めないと!
『――…っ!ですからっ!どうやって、彼女が一人で冷静な判断が下せるんですかっ。 今の彼女は、時の館にいた時よりも、ずっと余力がない。必死に虚勢を張っている。それももう無理矢理にだ!! ――貴方だって、もう彼女が限界に来ているのは分かっていたでしょう!』
――え?
その悲痛ともいえる叫びに、思わず隣の部屋に行こうとしていた私の意思が大きく削がれる。
『――…思いつめた瞳と、口角を上げるだけの微笑。政治政局についての話には、熱心についてこられるのに、異常なほど自分のことに無防備、無関心。男にこれ見よがしに鎌をかけられてみても、明らかに無意識に目をそらす。――限界とは、そういう現状のことか?』
『これ見よがしにって…。……彼女に何をしたんですか。』
ミシリと、音が混ざった。
『そう怖い顔をするな。何もしておらん。…たしかにシルヴィアの館にいた時に、やり取りをしていた頃の彼女からは、ここまでの危うさは感じなかった。それは俺も認める。――しかし過酷になっている現状から目をそらしても、何も始まらないだろう?』
『最近、ようやっと笑顔が戻ってきたのに、また追い詰める気なのですか。』
『トーコは本当の少女ではない。無条件の保護を徹底して嫌うのはお前も知っているだろう。現状を理解させて、こちらに馴染ませるべきだ。――その為にも、シルヴィアの養女になる可能性も、ウィンスで今後も保護する可能性も、皆無にするべきでは無い』
『――っ!反対です!』
ガン!と、殊更大きな音が、ひとつ。
『リバウンドの可能性が減ったのだから、兎に角、姿を隠すべきです。シルヴィアの意識が戻るまでこのままで、とは私も思っていましたが、こうなれば話は別です。――…確かにトーコ市井では目立つかもしれない。けれども、いくらでもやり様はあるはず。』
『冷静になれ。お前らしくも無い。』
これ見よがしな、大きな溜息。
『――大体、まったく戻る目処が立っていないのに、何故そこまで思える。 元の世界に戻すのは無理な以上、現実から目を背けるべきでは無い。本人も王都で働くのが難しいと認めたぞ。』
『――そうやって、彼女の退路を断つ必要があったのですか。見損ないましたよ、フォリア!』
少しイラついたようなフォリアの声に、唸るような声がかぶる。
『今のトーコが、館にいた時よりも精神状態の悪化が見られるのは俺も認める。しかし、はっきり言おう。――あいつはもう、元の世界に戻れない。』
『戻れる可能性が、皆無な訳ではありません!』
『どうやって、だ。……もう既に”時の館”は完全封鎖された。少なくとも、この警戒態勢が解除されるまでは、お前だって館で研究する事は出来ない。だからお前も、なけなしのテッラの文献を読むために、最近はユーンの本家にまで足繁く通っているのだろう。』
『………。』
『少なくとも、現状で彼女を市井に隠すことは、俺は協力しない。彼女の身をかえって危険に晒す。』
『……っ!!』
『それに、もしお前に何かあってみろ。今度こそ、トーコが耐えられんぞ』
『………。』
『さっき話した、シルヴィアへの異常な執着を見れば、お前に王宮の疑惑の目が向けられて拘束でもされてみろ。心身ともに弱きりったあいつは、今度こそ精神のバランスを崩したっておかしくない。』
『それは、』
『お前とシルヴィアと、自分の心の平穏を守る為に、あいつが自分で選んだ道だ。……レジデ。もうお前が望む形で、彼女を保護することは出来ない。――いい加減、認めろ。』
その音を最後に、カチリと音をたてて、それ以上続く口論は私の耳に届かなくなる。
隠しスイッチを無意識に切った私は、そのしゃがみ込んだ姿勢のまま、膝に顔を埋める。
――時の館が、完全封鎖。
――元の世界には戻れない。
二人の怒鳴り声と、二つのキーワードがぐるぐると頭を駆け巡る。
ああ、もう。ほんと、まいったな。
髪をかき上げた手の下で、ため息よりも先に、乾いた小さな笑い声と自嘲の笑みが、静かに漏れた。