春の宴 14
――このまま、こちらにいる気は無いのか?
そのフォリアの珍しい問いに、完全に食べ物へと意識が飛んでいた私は、何も考えずにごくんと飲み込んでから答える。
「無いですね。当然戻りますよ。」
それは自分の中では、考える必要も無い、分かりきった答え。
だから、何故フォリアがそんな当然の質問をするんだろう?という、素朴な疑問を胸に言葉を返した。
「今請けた”仕事”だけは完遂してから帰りたいと思っています。…けど、心配せずとも帰郷の方が後になるでしょう。」
出来るだけ早く帰りたいのが、本音ですがね。
暗くならないように邪気無く、そうさらりと答えれば、フォリアは何とも言えない表情を、ほんの一瞬ちらりと浮かべ、軽く目を伏せる。
その思っても見なかった表情に、逆に私が驚いた。
――フォリア?
けれどもそれを聞くよりも前に、フォリアはいつもの様子に戻って、不敵に微笑み、新たな質問で私の質問を塞ぐ。
「なるほどな。では、こちらにいるのが長期化した場合だが、…今でも出来たら自活したいと考えているのか?」
「――…。…そりゃぁ。したいです。いつまでも人の世話になっているのは、やはり落ち着かない。」
何故だか、フォリアは聞かれたくないのかもしれない。と、漠然と思った根拠は無い。
けれども何て言って良いのか分からず逡巡する間に、微かな齟齬は形にならずに崩れ落ち、喧騒と紫煙にまぎれて霧散する。
僅かな間、奇妙な沈黙が二人の間に訪れた。
「働かざるもの食うべからずと、故郷では言うんです。王都なら、人間一人が食べていく位の働き口、きっとあるんじゃないですかね。」
――機嫌を悪くしたのだろうか?
少しだけ杯を重ねた後、それ以上の沈黙を寄せ付けたくなくて、少しおどけたように笑いながらそう続ける。
折角の貴重な居酒屋タイムに、気詰まりはいらないぞ。
微妙な空気は、あっちに行け、あっち。しっしっ!
けれどもそんな私の心配は杞憂だったみたい。
いつもと同じように見えるフォリアは、すっと切れ長の瞳を細め、皮肉気な笑みを浮かべて答えを返してくれた。
「そうだな。”お前”は、女じゃないから仕事の手立てはあるだろう。―…が、お前の”姉”が働くとなると、正直厳しいぞ。」
軽く汚していても秀麗な顔が、会話に含みを持たせながら、こちらを覗き込む。
「王都なのに、女の働き口は少ないんですか?」
「貴族に限らず、未婚の女性は家で守られているものだし、外に働きに行く事自体がまず少ない。――…働き口は、家業の手伝い、縁故による行儀見習いくらいだな。」
それは思ったよりも少ないかも。
今まで何度と無く、働きたい、働きたいと訴え続けていた話が、今現実味を持ってフォリアが口に乗せてくれているのだとわかり、気持ち少し神妙になる。
「では、小売店とかの一般公募は?」
「皆無ではないが、大抵、求人はそれぞれのギルドを通すのが普通だからな。ギルドを通せば、素性の分かった人間が雇える。……わざわざ身元不確かな、一般公募をする必要が無いだろう?」
なーるーほーどー。
何とは無しに、大学の就職課を思い出す。
…とは言え、ギルドに伝手も無いし、困ったなぁ。
「でも紹介状も無くて、ギルドにも所属していない女性もいるのでは?」
そう苦し紛れに聞けば、それには軽く同意が返された。
「まぁ、当然いるだろう。ただ、お前の姉みたいな非労働階級の娘は、どこかの館に雇われないで働くのはあまりに危険だ。……一般公募の求人はやめておいた方が良い」
言い含めるような男の物言いに、胸のうちで呟く。
だーかーらー。その為の紹介状が無いんですってば!
でもこれ以上、フォリアに頼む訳にはいかないしなぁ。
グラスを傾けながら、そうぶつぶつ悩んでいると、今度はとんでもない一言が飛んできた。
「お前も、姉が娼館や寝台の上に連れ込まれているのを、望んでいるわけではあるまい?」
「ぶっ」
思わず、飲んでいたお酒が気管支に入る。
げほごほっ!うええっっほ!
し、娼館って! 寝台の上って!
盛大にむせながらも、手だけで「んな訳、無い!無い!」と表現する。
どうして、パン屋のバイトとか食堂の皿洗いから、連れ込み茶屋みたいな話しになるんだ。
別に治安の悪い貧民窟で働くつもりは無いですよ?
そう言葉にしようとして、またひとしきりむせ返る。
うううっ!苦しいよーっ。
涙を目に、身体を縮めてむせ続けていると、ふと、私の上に影が落ちた。
ずっと私の背中を撫で続けてくれていたフォリアが、何故か階段とカウンターの陰に隠れるようにして、私の耳元の口を寄せる。
それは低く、そして少し艶を含んだ声。
耳朶に触れなんばかりの至近距離で、周りに聞こえない程度の、理解不能の単語の羅列が紡ぎだされた。
「艶やかな黒髪に、濡れたような黒曜石の瞳。白粉の一つも叩かず、きめ細やかな真珠の肌。――小鹿を思わせるしなやかな立ち姿には、乙女の潔癖さでは隠し切れない色気を、微かにちらりと垣間見せる。」
理解不能の単語の数々に、咳き込みながらもカチンと固まり、思わず視線を上げれば、いつもより野生の色合いを映した男の瞳。
濡れた舌先が、話す度にちらりとその赤い色合いを覗かせる。
何故だか、背中を撫でていた手が、すうっと腰まで下ろされた。
「男に媚びない危うい警戒心も、さらにはその警戒心が緩んだときに見せる笑みも、……男ならば惹きつけられて、当然だ。――衝動的に、腕にかき抱きたくなりすらする。」
至近距離の瞳が、危険な甘い光を、ちらりと浮かべた。
何!何!何!
その、ぞわりと鳥肌が立つ表現の数々は!
嫌がるのを充~~~分!分かった上で、からかっているね!?
そう睨みつけても、耳朶にかかる微かな吐息と低い声に、否応無しに、無理矢理封印した夜の記憶が思い出され、ぞくっとする。
そんな私の様子を分かっているのか。
その存在を示すように、腰に回った大きな手に、くっと、力が入った。
「あれは、男の理性を狂わせるには、充分すぎる女。――…お前もそう思うだろう?」