春の宴 10
「これまでのご無礼をお許し下さい。貴方様は、ファンデール王国国王陛下とお見受けいたしました。」
そのまま自然と裾をさばいて貴婦人の礼を取り、深く頭をたれる。
王権を示す星の紋章。
それを身につけられるのは王族のみ。とは言え、王弟や他にも国王に近しい身分の王族はいるはずだ。
けれども分かってしまった。
シルヴィアと呼ぶ名に隠された親しさが、無用心にも供も付き添わせず一人で現れたこの男こそが、王国の主であると。
――この豪放磊落な男性が、ある種の元凶であると。
元より隠すつもりも無かったのだろう。
やはりすぐに気がつかれたか。と鬚に覆われた口元を上げて笑う姿には、特に気にした風には見受けられ無い。
「よい。不運な我が従兄妹姫――シルヴィアを、闇から救い出した噂の人間。それをこの目で確かめたかったのでな。ロワンに無理を言うたわ。」
あの狸~~~~!
上席の長椅子に進みゆったりと腰掛ける国王の前で、上品な老魔術師を思いながら胸の内で小さく叫ぶ。
今日私がここに来たから国王が出向いた…のでは無く、国王が気まぐれに見舞いに来る時間に、私が登城するように仕向けられた。
きっと、そう考える方が正しいのだろう。
何だかまんまと、老魔術師の掌の上で踊らされている気がする。
老紳士が示したシルヴィアへの愛情を今更疑うつもりは無いけれど、相変わらず喰えない人間だとの思いは変わらない。
頭を垂れた姿勢のまま、思わず溜息をつきたい気持ちになった。
「顔を上げるが良い。折角の艶姿をも損なおう。何よりも、そなたにも色々言いたい事があるであろ」
豪奢なソファでゆったりと足を組みながら、意外なほど親しみをこめてファンデール王国 第七代王フェルディナント二世は、私に語りかける。
言いたい事など、山ほどあるよ。
けれども、一国をすべる人間に、何を言えと言うのだ。
実際には、文句など言えよう筈も無い。
今の私の気持ちを忌憚無く述べるならば、この場から早く逃げ出したい。
ただその一言に尽きた。
そう思いながら、否定の言葉を唇に乗せようとして、ふと、ロワンの声が脳裏に浮かぶ。
――どうかシルヴィアをシルヴァンティエ様に戻さないで頂きたい
その言葉を思い出すと同時に、ぎゅっと体の中心をつかまれるような気持ちになる。
そうか。もしかして、そういう事なの?
ロワンは本気で、シルヴィアを王宮から解放してあげたかったのだろう。
国王が私に興味を示した。
だからもし、私、アーラが同じくシルヴィアを王宮から解放したいと思っているならば、国王に会わせてみようと思ったのではないの?
奏上させるために。そして説得させるために。
そう考えれば、わざわざロワンがあのタイミングで、何故シルヴィアの過去の話を私にしたのかも得心する。
ロワンは探していたのだ。シルヴィアの心を助ける方法を。そしてそれを実現する方法を。
ようやく今、老紳士の本意が見えた気がした。
「そう硬くならずともよい。公式の場ではないのだ。そなたの忌憚無い意見が聞きたい。」
何も言えずに固くなった私を、緊張からのものと捉えたのだろう。
その闊達な王の前で緩やかに顔をあげれば、深みのある顔立ちの中に、強い覇気を感じる瞳を見つける。
――怖い
今まで感じたことの無い、恐怖にすら近い強い困惑が、一瞬で体の中を駆け抜ける。
人生、そうそう取り返しのつかないことなんて無い。
けれども今私は期せずして、その人生の大勝負の舞台に立っている。
言うなれば、ルーレットのディーラーは目の前の王者、そして賭けるチップは私だけでなく、多くの人間の人生だ。
自分の一挙一動が、多くの人間の人生を左右する。
しかもそれは取り返しがつかない、今ただ一度きりの大勝負。
これで怖くないはずが無い。
脳裏に心配そうなレジデの顔と、王宮とはなるべく距離を取れと再三注意をしてくれていたフォリアの顔が浮かぶ。
何も言わない方が良い。シルヴィアが王宮から解放される事は、あまりに望みが薄い。
ロワンもそれは認めていたじゃない。
それどころか私が下手な事を言えば、テッラ人とばれて、ますます厄介な事になるかもしれない。
それでも。
「もし許されるのであれば、一つだけ陛下にお願いしたい事が御座います。」
ひた。とその瞳を見つめてから、万感の思いをこめて紡いだ声が、部屋の中に木霊す。
じっとりと汗をかいた手が、小さく震える。
…ロワンの掌で転がされているのは、正直気持ちのいいものではない。
けれどももし、少しでも未来を変えられるのであれば。
もし、少しでも償えるならば。
「どうか、――シルヴァンティエ様を王宮より解放して下さい。」
たとえ理性が、感情が、私の身体の内の全てが、この先に続くの道が、危険であると告げていたとしても。
私が壊してしまったシルヴィアの生活を、少しでも良いものに出来るならば。
私は今度こそ、逃げたくは無い。