春の宴 9
おーそーいーー。
誰もいない控えの間で、一人ごちる。
ぼんやりと一人で待つのは苦痛じゃないけれど、ドレスに皺がよらないように、ぴんと背筋を伸ばしてソファに座り続けるのも、もう限界だ。
時計も携帯電話も無い部屋の中で、どれだけ時間が経ったのかはわからないけれど、少なくとも部屋の調度品を眺めて時間をつぶすのには、長すぎる時間がすぎた。
――ラルシュでもフォリアでも良いから、誰か来ないかな。
そう思って、伸びをする代わりに、ソファから立ちあがり、窓辺に近寄る。
病室から見るほどではないけれど、控えの間から見ても充分田園風の庭園は美しい。
緑の間を渡る、なだらかな小道と、色とりどりの花のアーチ。
小川の上には小さな橋がかかり、垂れ下がる蔦までが伸びやかだ。
故郷で見た、モネの庭の画集や子ども達に読んだピーターラビットを思い出す。
園児達が見たら、さそがし喜ぶ事だろう。
けれどもそれらは、よくよく見れば、全部少しずつ小さい。
見上げるほど大きく見えるあの常緑樹も、きっと傍に行けば、男の人の背丈分しかないだろうし、清らかな小川も、私でも飛越えられるくらいの幅しかない。
それは計算されつくした美しさ。
この庭は、病室から見える範囲に様々な景色を入れられるよう、縮尺を変えて作られた芸術品なのだ。
そんな恐ろしく手間も暇も莫大な金額もかかった庭を、開け放った窓から眺めていると、ふと、その景色を崩すように一人の巨人が現れた。
――? 庭師とか…メンテナンスの人なのかな。
逆光でその表情は見えないけれども、アリスが不思議の国で感じたように、その縮尺の差に自分の価値観が壊され混乱する。
こんな昼日中にするものなのかは、分からないけれども、誰が見てもこの庭は立ち入り禁止。
枯山水の白砂や小石を上を歩く人間がいないように、この庭園を歩く人間がいるとは思えないもんね。
そう思って、その姿をぼんやりと見続けていると、その巨人は私の予想を裏切って、空手で小さな小道を歩きはじめる。
不審に思ってよくよく見れば、その小道の辿り着く先は一つ。
もしかして、向かう先は隣のシルヴィアのいる病室!?
悠々と歩く姿からは、シルヴィアを害するような人間には見えないけれど、不審者と言う点では間違いない。
嫌な予感がぞくりと背中を振るわせる。
扉を開けるなといわれているけれど、廊下に出て人を呼ぶべきか、それとも隣の病室に知らせるべきかもしれない。
一瞬窓辺で迷っていると、ふと、その巨人がこちらを向いて、歩みを変えた。
歩きやすい小道から、飛び石を伝い、まっすぐとこちらに近寄ってくる。
あまりの驚愕に動けない私の前で、ぐんぐん大きくなる巨人はついにその瞳に私の影を映すまでになる。
「ふむ。シルヴィアの容態を見に来たのだが、春の花祭りを前に、春の精霊が舞い降りたか。」
窓をはさんだ向こうから、巨人はそう問いかけた。
それは一人の男だった。
細面ながらも彫りの深い精悍な顔立ちに、強い知性を感じさせる黒い瞳。
黒い髪には白いものがちらほら混じり、上品な穏やかそうな雰囲気を兼ね備えているけれど、その本質は凛々しいでは、まだ弱い。
壮年とは思えない鋼のように引き締まった長身と、うっすら日に焼けた身体が放つ、猛々しいほどの逞しさ。
混乱して絶句したままの私を特に気にした様子もなく、その巨人は窓枠に手をかけると、窓枠を飛越えて、するりと部屋に入る。
その動きは、大柄な体を感じさせない野生動物のような機敏な動作で、日々鍛錬をしている人間のもの。
この年齢でここまでの動きをするならば、若い時はさぞかし堂々たる偉丈夫だったのだろう。
そうしてやっと見知った縮尺の世界で見た男性は、シグルスと同じぐらいの背格好の、魅力溢れる上位貴族だった。
「驚きのあまりに声も出ないといった風情か?」
ふと、穏やかで優しい笑みを湛えている顔が、面白そうに笑う。
「そなた名は?」
そう問われて、ようやっと我に返った。
「申し訳ありません。私の一存で明かせる名を持っておりません。」
――自分からは決して扉は開けず、中で待っていろ。
そうシグルスは言った。
この人が誰であろうが、警戒するに越した事は無い。
そう思って、失礼にならない程度に頭をたれると、喉の奥でくつくつと笑い声を立てられる。
「面白い。姿はたおやかなな春の精霊のようだが、情は強いようだな」
いきなりおとがいを持たれ、まじまじと顔を見分される。
肉厚でざらりとした指は、明らかに戦い方を知るもので、本気で力をこめたら私の顎なんて砕かれるんじゃないだろうか。
ひやりとしたものを感じながら、少し顎を引いて、やんわりとその手を拒否する。
「どうかご容赦を。」
けれども男は、特に意に介した様子もなく、
「ふむ。少し困ったような顔も、また愛らしい。」
目尻の皺を深くして、太く笑った。
――不思議な人。
警戒しながらも、そう思う。
故郷で沢山見た黒目黒髪の人間だけれども、壮年にさしかかる年齢で、こんなに生命力に満ち溢れた人間を見たことは無い。
今されている事も、立ち入り禁止の庭から窓枠を乗り越えてきたことも、本来なら不快に感じて当然のものなのに、不思議とそれを感じない。
強引だとは感じるけれども、笑うとどことなく愛嬌もある姿には、好ましさも覚えた。
とは言え、こんな至近距離で初対面の男性に顔を見分されるというのは、面映いというか、居たたまれない。
いつまでも放してくれなさそうなので、そっと日に焼けた腕を両手で押し返せば、ちゃらりと音を立てて銀の腕輪が鳴った。
「名はなくとも、正式なシルヴィアの客人のようだな」
水晶と銀細工で出来た腕輪の意味を知っているのか、ふと興味がそれたように、おとがいを持つ手が腕輪を通した右手を捕らえ、そして放す。
その仕草を見ながら、むくりと強い警戒心がもたげた。
目の前の彼は、二度、シルヴィアと呼んだ。まるで当然のように。
それは彼を、盲目姫が天才技師と知っている人間と捕らえるべきだろうか。
それともシルヴァンティエ姫の正式な客である私に、姫と天才技師のシルヴィアが同一人物なのかどうかの鎌をかけているのだろうか。
ちらりと扉を見ても、誰も来る気配も無い。
裾をさばいて柔らかく立礼をしながら、それではと、警戒しながらも柔らかく続ける。
「シルヴァンティエ様をシルヴィアとお呼びになる貴方様を、何とお呼びさせて頂いたらよろしいでしょうか。」
本来、名乗らず相手の名を聞く事は礼を失する。
特に上位貴族と一目瞭然にわかる相手に聞くのだから、叱責は覚悟の上の質問だ。
とは言え、まさか刑罰の対象にまでは、なるまい。
けれども、そう思って緊張した私に返されたのは、不快な叱責ではなく、闊達とした笑い声で。
「名乗らず、名を聞くか。――ますます面白いな。」
まさかそう返されるとは思わなかったので、面白そうに笑う相手の前で、内心で途方にくれる。
むぅ。どうしたらいいんだ。
「申し訳ございません。」
とりあえず謝った私に、笑いながらも、男は続けた。
「シルヴィアの元婚約者候補だ。――病状が回復の兆しを見せたと聞いたのでな。顔を見に来たのだ。 縁のある女性の見舞いに来る事は、不思議ではあるまい?」
その思いもよらなかった言葉に、ぽかんとする。
しかも、シルヴィアと呼ぶその声は明らかに親しさに溢れたもので、戸惑いを隠しえない。
天才技師としてのシルヴィアでは無く、純然たる愛称としてその名を呼んでいたの?
王城で彼女に親しい人間。
そんな人がいるとは思えなかったけれど、もしこの話が本当だとするならば、ただの貴族では無いはずだ。
そう思って相手の姿をよく見れば、先程は気がつかなかった、星の形をかたどった精緻な指輪が目に入る。
他にも剣帯に施された金糸の刺繍にも、同じく星の姿。
以前どこかで見た事のあるモチーフの意味を、必死と脳裏で探り寄せれば、かちりと一つの記憶と結び合い、私にその意味を悟らせる。
――まさか、まさかこの人が
シルヴィアの従兄妹にして、ファンデール王国現国王、フェルディナント二世。