春の宴 7
「そんなに驚かせるつもりは無かったのですが、すみません。…獣人族は普通の人間より、夜目も利くし、身体能力もそんなに低くないんですよ。心配かけてしまいましたね。」
散々私を心配させたレジデは、月明かりのバルコニーでそう私に語りかける。
流石に腰を抜かしたのは、人生で初めてで、別の意味で顔を上げられない。
うう。恥ずかしい。
「ごめんなさい。私も驚きすぎちゃって。」
冷静に考えれば、レジデは猫の獣人族。
慎重な彼が、むやみやたらに危険な事するわけ無いし。
低い木に登った愛猫を心配することが無意味なように、私も驚きすぎてしまったみたいだ。
「そうは言っても、私は実践に向かない学者ですからね。獣人族の特性を知っているこちらの人間でも、私なら落ちかねないと、心配されたかもしれません。」
そんな私の気持ちを慮って、茶目っ気たっぷり、やんわりとフォローを入れてくれるレジデ。
「この間の治療のときに年齢の話はしましたが、獣人族の特性については、殆ど言いませんでしたしね。」
そう。先日ついに彼の年齢を知ったのだ。
話によると一応、成人男性と考えて良いみたい。
フォリアが、俺と大差ないと言っていたから少なくとも20代後半、30前後あたりかな。
同世代と言われると、少し何だか感慨深い。
「まぁ、人間一つぐらい特技があるという事で。…でも、出来るならフォリアには内緒にしておいて下さいね。」
二人で月を仰ぎながら、夜空のテラスでひっそりと話す。
「手すりに立った事を?」
「うーん。それもありますが、主に深夜にトーコのバルコニーに飛び移って、不正侵入したことですかね。――夜這いしたのかと言われてしまえば、私はフォリアの魔剣のサビにされてしまいます。」
冗談を生真面目に言うレジデが可笑しくて、思わずくすくす笑う。
確かにレジデじゃ、フォリアに勝ち目はなさそうだ。
そんな私を見て、ようやく笑ってくれましたねと、ほっと笑顔を返される。
え?
「ロワンが帰ってから、どこか気持ち上の空で、夕飯も殆ど食べていなかったでしょう?――心配事で、眠れなかったんですか?」
月明かりの下で、小さく首を傾げられれば、微かに胸のうちがざわめく。
今の騒動で、一度は頭からすっかり消え去った暗く重たい気持ちが、また静かに湧き上がった。
「相変わらず、良く見てるね。」
適わないなぁ。
苦笑しながら、申し訳なさ半分、でも人柄を褒めたつもりで言えば、慌てたように真っ赤になるレジデ。
そんなに見てません!と尻尾の先まで逆立ったかと思うと、何故か、私の腕に巻きつけていたストールを取って、しっかりと肩に巻かれる。
あれ。
何か違ったように取られてる?
「ん。私がこの世界に来た事で、本当に皆に迷惑かけてるなって思ってさ。」
かき合わせたストールを胸元でぎゅっと握って、その上に顎を乗せる。
さやさやと髪を揺らす風が、ピンと張ったレジデのひげをもそよがした。
「眠れないほど、ロワンとの話がショックだったんですか?」
隣に座った、もふもふの縞の毛並みを見ながら、ショックだったのかと自問自答すれば、答えは否だ。
「そんな簡単なものじゃないよ。」
小さく笑んで答える。
――今更、どの面下げて、シルヴィアに会いに行けば良いんだろう。
腕に通した銀の腕輪がちゃらりとなる。
彼らの思惑や事情はわからない。
昼間、ロワンと二人きりで会ったとは言え、実質会話は隠し戸棚を通って、隣の部屋に筒抜けだった。
レジデが日参しているとは知らなかったロワンも、フォリアに会話を聞かれている事自体は、承知の事だったのだろう。
けれども、今、月の光を受けた銀の腕輪が、嬉しくもあり、悲しくもあった。
ふと、そんな話を聞いていたレジデが身を起こすと、胸ポケットからごそごそと、小さな瓶を取り出した。
「フォリアが贔屓にしている、秘蔵の酒なんです。珍しく分けてもらったんですが、どうせ眠れないなら春の月見酒に付き合って下さい。」
ポンと小気味良い音を立てて開いた小瓶から、ふわりと甘い香り。
いきなりどうぞと渡され、一瞬困惑するも、その甘い香りに誘われるように一口、口をつける。
「あ…。美味し」
極上のとろりとした液体は、すぐに舌に馴染んで、ささくれ立った心をまろやかに包む。
「落ち込んだ時には、美味しいものに限りますよ。…フォリア秘蔵の酒とか、トーコの手料理とか。」
誰よりも料理オンチなレジデがふっくらと目を細め、優しく答える。
私の手料理はともかく、確かにこのお酒は美味しいよ。
もう一回口をつけただけで、手のひらに隠れる程度のボトルは、半分ぐらいに減ってしまった。
「実はお酒には弱いんですけれどね。…あまりに美味いと言うので、ほんの少しだけ分けてもらったんです。」
私にも一口下さいとの言葉に、慌てて小瓶を返せば、その腕輪を通した手をレジデに取られる。
「ああ。さっき私が心配をかけた時に、擦りむいてしまったんですね。」
そんなわけ無いと気がついているのに、レジデは優しくそう言うと、私の手に口に含んだお酒を少し吹きかける。
意外と深い傷になっていたのか、強いアルコールの刺激に、思わずちょっと顔をしかめた。
「すみません。痛かったですか?思ったよりも酷いですね。……でも、この位なら治療出来るでしょう」
その言葉と共に、目を伏せたレジデの両手の中で自分の手がうっすら光り、銀の鎖のような文字が浮かび上がった。
一瞬くらりとめまいがする。
「トーコはご存じないでしょうけれど、フォリアはトーコと会ってから、まるで人が変わったようです。」
治療魔法の合間、伏せた目のまま、ゆっくりと言葉が紡ぎだされる。
「私が西に旅立った時も、時間の遣り繰りが出来ない私より、ずっと細やかにトーコの心配をしていました。元々、一つの事に執着しないフォリアのあんな姿を見たのは初めてです。」
突然の話に耳を傾けている私とレジデの間を、ふわりと、少し冷たい春風が吹きぬけた。
握られた手は暖かい。
「そしてそのフォリアは、トーコのお陰でシルヴィアが幸せそうだ。人が変わったようだと話していました。」
私の手を見つめたままのレジデの横顔が、静かにはんなりと笑う。
「人間、どんなに否定していても、自分のルーツは中々捨てられないものです。――シルヴィアはシルヴァンティエとしての自分に。フォリアはただのスペアとして、母親の不幸の上に作られた自分に。まるで振り切れない影のように、纏わりつかれていました。」
けれどもそれを乗り越える切欠を、トーコが与えたんですよ。
――そうレジデが言ってくれても、もちろん素直に頷く事なんて出来なくて。
しばらく、二人の座る静かなバルコニーに、さわさわと草木の立てる音だけが響いた。
「トーコ。この世界にトーコを召還したのは誰ですか?」
ふと、治療も終盤に差し掛かったあたりで、わかりきった事をレジデに問われる。
「?…レジデ」
「時の館で、肉と野菜の灰汁まみれの料理を出したのは?」
ああ。そんな事もあったっけ。思わず、小さく笑ってしまう。あれは不味かった。
「レジデだ。」
「では、眠れない女性に寝酒を勧めて月見酒につき合わせている不審者は?」
その言い方も何だかなぁ。
くすくす笑って、レジデ。と意図も分からず答える。
では。と少し改まって問われる。
「この世界にトーコを無理矢理召還して、帰る道も示せず、他の人間に託して、大怪我までさせて、国家の陰謀にまで巻き込ませたのは?」
そのまま強く手を握られる。
いつの間に治療が終わったのか。
驚いて顔を上げれば、両の目をしっかり上げて私と向かいあうレジデの瞳に、困惑する私の姿を見た。
「…レジデのせいじゃないよ。」
「いいえ。私のせいです。」
小さく答えた私に、間髪入れずに答えるレジデ。
何だか、その姿が揺らいで見える。
「トーコは何も悪くない。全ては私が蒔いた種。全ての責任は私にあります。」
否定したいのに、二重三重にも揺らいで、もう目を開けていられない。
この時の私は、治療魔法の前後に飲酒をすると強くまわるなんて知らなくて。
くったりと指一本動かせないで、そのまま床に崩れさった体を、思ったよりもずっと力強い大きな手が支える。
ゆらゆら、ふわふわと、運ばれているような気がするのは、お酒のせいか気のせいか。
火照った体に、冷たいシーツの感触が気持ち良い。
体にふわりと何かがかけられる。
もう殆ど意識を保っていられない私の頬に何かがかすめ、その意味を繋ぐ事ができない耳に、ヴァリトンボイスが密やかにおちる。
「私に何があっても、必ず貴女を元の世界に帰します。」
けれどもその言葉は、さらさらと砂のように私の記憶に留めておくことが出来なくて、春風のように宵月に消えていく。
願わくば、トーコ。
もしその時が来たら、貴女は少しでも泣いてくれますか。
――私が死ぬ時に、貴女は少しでも泣いてはくれますか