春の宴 6
さわさわと、ガラス越しに春風が草木を揺らす音がする。
眠れなくて窓辺に寄った私が見上げた夜空には、故郷では見ることのなかった、二つの月を取り巻く星屑たち。
ネオンも汚れた空気も無いこちらの世界では、こんな夜空ですら、故郷を思い出せるものには成り得ない。
――でも、綺麗だな。
その月明かりに光る庭の草木に誘われるように、金色の留め金を外して、ガラス扉を押す。
春の夜風は、意外なほど心地よい。
きぃ。と、小さな音を立ててあっけなく開いた窓の向こうには、中庭を望む形で半円にせり出した大理石のバルコニーが、月の光を受けて白く輝いていた。
薄手のルームシューズとネグリジェのままだけど、どうせ誰も見ていないよね。
そのまま、暗闇の中でうっすら光る半円の舞台に滑り出れば、何だか見知った景色も幻想的に見える。
そのまま春の夜風に吹かれていると、胸の内に溜まった、どうしようもない、もやもやとしたやるせない気持ちが、少しだけ軽くなった気がした。
こちらの世界に来てから、夜が早くなった。
夜会や夜の街に縁の無い私は、こうして月が高く上る時間には、子供のように部屋の電気を消して、眠りに落ちるのを待つだけだ。
けれども今日は、ベッドの上で右へ左へと動いても、昼間の事がしきりに思い出されて、眠れない。
考えないようにと思ってみても、薄暗い気持ちが胸を塞ぐ。
パリッと糊のきいた、真っ白なシーツの上に落ちた、月明かり。それに指をはべらせるのにも飽きた頃、結局寝る事を諦めた私は、静かに体を起こし、今ここにいる。
「…何、やってんだろ。私。」
背中を壁に預けて、大理石の上に座り込むと、足元まである柔らかなネグリジェのスカートが、ふわりと広がる。
その薄く色付いた白く柔らかな生地は、寝巻きにするにはもったいない程。
繊細なレースが縫いこまれた、ネグリジェに指を這わせながら、思わずこぼれた言葉は、日本語だ。
「――帰り、たいなぁ。」
元の世界に?
いや違う。
誰の世話にもならない、人を脅かしたり傷つけないですむ生活に、だ。
――あの後見人の文面は本人にしか書けない物。人間嫌いのシルヴィが、身を挺してまで貴女の行く末を心配し、作ったものでしょう。
昼間のロワンの言葉を思い出せば、目頭がつんと熱くなる。
思わず、わなないた口元を押さえるために、奥歯をぐっとかみ締め、失敗する。
「…シルヴィアは、人間嫌いじゃないよ。」
誰も聞く人のいない月明かりの下で、誰にも聞こえないように、一人呟いた。
脳裏に浮かぶのは、あの間延びした口調と、子供のような笑い顔。
シルヴィアは人間嫌いなんかじゃない。
そう思う。
だってあんなに人恋しがっていた。あんなに嬉しそうだった。
アーラがいなくなったらどうしようと、何度も何度も笑いに交えて伝えてた。
さみしいのだと。もう独りはいやなのだと。
――けれども、それを私が壊した。
悔しさとやりきれなさが先立って、ついに顔を膝にうずめる。
分かっている。私がいなくても今回の事は、起こったことかもしれない。
けれども、説得の時間も無く、拉致するように王都につれてこられたのは、私がいたからだ。
私にスパイ容疑がかかっていなければ、きっとロワンが手を尽くして、もっと穏便に事は進んだはずだと思う。
あんまりじゃない。
私は片手に余る程度の人間すら、大切に出来ないの?
また、だ。
こうやって、また私は大切な人の人生を踏みにじる。
こんな私の為に。
一生をかけて、辛苦を乗り越えて、あの生活をようやっと作り上げたシルヴィアを踏みにじったのは私なのだ。
そう強く湧き上がる気持ちを、握った拳でバルコニーを叩いてやり過ごす。
けれども磨き上げられた大理石は、鈍い音すら立てず、びくともしない。
そうして幾度となく、小さく打ちつけた拳が痛みを感じなくなった頃、怒りと悲しみが強い風にさらわれて、代わりに茫然とした砂のような気持ちが胸に溢れた。
ああ。そうか。
誰の世話にもならないで、人を脅かしたり傷つけないですむ、元の生活。
そもそも、それ自体が私の思い込みだったのかもしれない。
そう考えたら口に浮かぶのは失笑だ。
だって、そうじゃない。
私は今、なんでここにいるの?
何故、あそこまで憎しみの芽が育ってしまったのかは、分からない。
けれども、麻衣子の憎悪の根源は、恐怖だ。
私が彼女の生活を脅かすと思ったからこその、あの行動。
それが思い込みであろうが逆恨みであろうが、私にとって一つだけ真実がある。
私が壊した、小さな世界の数だ。
シルヴィアの世界も、麻衣子の世界も、そして…。
そこまで考えて、私はまた、いつもの強い光の塊にぶち当たった。
思い出してはいけない。
それ以上考えてはいけない。
ここから先に、来てはいけない。
強い光が警告する。
その先に進みたくて、進めなくて。
結局私はいつものように、そこから視線をそらした。
――トーコ?
星屑のバルコニーで、ただ夜風に当たり続けていた私の耳に、ふと、小さく名前を呼ばれた気がして顔を上げる。
けれども、辺りを見回しても、もちろん誰もいない。
気のせいかと夜空を見上げれば、もう一度、忘れようも無い、魅惑的な声が私の名を呼んだ。
「トーコ?…まだ起きていたんですか?」
――レジデ?
慌てて座り込んでいたのを立ち上がって、目を凝らして声のした方を見る。
暗闇に慣れた目をこらしてみれば、隣のバルコニーの欄干に、よじ登るようにして、こちらを伺うレジデの姿があった。
「ちょっ!レジデ!危ないよ!」
時間が時間なだけに、声を潜めながらも、思わず慌てて叫ぶ。
背丈の低いレジデには、大人の胸の高さまである欄干によじ登れば、両足はもちろん浮く。
園児と同じく、重心が頭の方に重いレジデがそんなに身を乗り出せば、最悪今いる三階から落ちかねない。
もう既に、胸から上を手すりの上から出して、きょとんとこちらを見つめている姿は、可愛らしいより何より、危険だ。
駆け寄りたくても、隣のバルコニーとこちらのバルコニーの距離は結構ある。
「ね。降りて!危ないって!!」
慌ててこちらも欄干にしがみつくようにして、静かに声を張り上げると、なんとヌイグルミの様な彼はにこりと笑い、装飾が施された手すりの上に、ひらりと立ち上がる。
そして案の定バランスを崩したのか、レジデの上体が大きく沈み込んだ瞬間、見ていられなくて思わず手すりに顔を伏せた。
あぶないっ!!!
けれども、次の瞬間聞こえてきたのは、あまりにも近い距離で。
「トーコ。大丈夫ですか?」
え?
恐る恐る顔を上げれば、すぐ目の前に心配そうな、もふもふの姿。
この4~5メートルはありそうな距離を、一気に跳躍した事実が信じられなくて、目の前の欄干の上に、ちょこんとしゃがみこんでいたレジデを、腕の中にかき抱いて後ろに座り込む。
わわわわわ。と、慌てるレジデを、腰が抜けたまま、そのまま強く両腕で抱きしめる。
心配した。心配した。心配した。
真っ白になった頭では、他に言えることは何も無くて。
繰り返し言いながら、震える手でその暖かな体を抱きしめる。
ふと、加減が出来ない私の手の中で、固くなっていたもふもふした体の力が抜ける。
「大丈夫ですよ。大丈夫。」
そう言って、抱きしめた私の体を、小さな手がぽんぽんと労わるように叩く。
――ほんとに、無事でよかった