再会の白亜城 8
どれだけ、この声を、そしてあの姿を求めていただろう。
とっさに振り向けなかったのは、あまりにもその思いが強かったから。
オルペウスが冥府の王ハーデスとの約束を破り、エウリュディケをもう一度失ってしまったように、振り返ったら幻になってしまう気すらして、動けない。
けれども肩に置かれた手は温かく、その存在が確かなものだと告げてくれている。
その温かさに勇気を貰い、あえぐ様にして振りかえれば、顔を縁取る艶やかな濃紺の髪と、懐かしい夜の海を思わせる瞳と目が合った。
「フォリア…。」
本人にしか聞こえないほどの小さな呟きが、唇からこぼれ出る。
少し皮肉気に歪められたのがよく似合う形の良い口元が、呆然と見上げる私を認めて、ほんの一瞬だけ微かに、笑みを作る。
それと共に、自分を焼き尽くす程のどろどろとした灼熱の様な怒りが、清水の様にすうっと溶けて消えるのが分かった。
――ようやく、会えた。
その気持ちは私を小さな子供の様にさせ、大声で泣き出したい気持ちにさせる。
そう。私は彼らに会いたかったんだ。
こんなにも、焦がれるほどに。
その後、会議は荒れに荒れた。
シルヴィアが一命を取り留めたこと、フォリアが私の身元保証をしたこと、それがどう作用したのかは分からない。
けれども、猜疑的だった会場の雰囲気が、ガラッと一転したのは確かだと思う。
進行役の男の口調が丁寧なものに変わっただけではなく、ひとり、ふたりと、我こそはアーラ嬢の身元引受人に相応しいと、名乗りをあげる人間まで出始める。
どういう事?
そこに私の意志は無く、ただお互いの間で、おもちゃを取り合う子供の様に、見えない火花すら散っている。
眉をひそめる私とは別に、横に立つフォリアは幾分皮肉気な様子で、泰然とその成り行きを見守っている。言いたいのならば、言わせておけと言わんばかりだ。
周りの人間の、あまりの変わり様には目を見張るしかないけれど、フォリアが何も言わないのであれば、私も何も言う必要が無いのかな。
そう思いながら、隣に立つ男をちらりと見る。
初めて見るフォリアの魔術師としての正装は、その髪よりももう一段階暗い蒼。
その服から覗く細くしなやかな肉体は、騎士団長のシグルスとは違ってがっちりとした体つきではないけれど、隙の無さと俊敏さは隠しようも無い。明らかに剣技を知る体だ。
一枚の足元まであるローブを複雑な刺繍の飾り紐で結んでいたシルヴィアとは違って、その上着は膝丈と少し短く、すっきりとしている。
裾には飾り紐の代わりに難解な刺繍がライン状に施されていて、機動性を高めるために両サイドに入った深いスリットが、その動きの邪魔をしない。下には細身のズボンと黒い長剣。
全体的な印象は似ているとは言え、シルヴィアの正装とは、完全に似て非なるもの。
言うなれば、フォリアは魔剣士。そしてこれは、明らかに戦う事を前提とする人間に作られた意匠だ。
学者でもあるレジデとフォリアの魔術師としての違いを、今始めて実感した。
ギリギリまで抑え付けた鈍い蒼に、白銀の刺繍が施された意匠は、フォリアに良く映える。
そんな初めて見るフォリアの姿に、自覚すら出来ない心の奥で、一瞬何かがさわりとざわめいて消えた。
「まぁまぁ、皆様方。落ち着きなされ。」
目の前で未だに続く、泥沼化しはじめた醜い攻防を落ち着かせたのは、一人の老紳士の声。
どこかで聞いた事のある声に振り向けば、先日見た時と同じ重い灰色の長着、柔和な顔にある白く長い髭が眼に入る。
相変わらず、いかにも上品な老紳士といった風情で、丁寧な仕草とにこやかな笑顔を浮かべているのは、魔術学院の古狸、ロワン老魔術師だ。
何故、ここに。
意外な人物の登場に、眼を見張る。
フォリアが連れて来たのだろうか。
この部屋に最初からは、いなかったはずだし。
助手アーランとしてロワンに会ったと、二人にあてた手紙に記した事がある。
レジデもフォリアも魔術ギルドに所属していたはずだから、面識があってもおかしくは無いけれど、彼の立ち位置が分からない。
幼い言い方をするならば、敵なのか、味方なのか。
少なくとも一筋縄でいかないことだけは確かな気がした。
ロワン老は、熱くなった男達を軽く手を広げるだけで落ち着くように促すと、人を惹きつける柔らかな笑顔を浮かべながら前に進み出る。
「私がシルヴァンティエ様の治療も含めましたお世話をさせて頂きました事は、国議貴族院の皆様もご承知の事と存じ上げます。…さて、こちらの少女、アーラ嬢ですが、シルヴァンティエ様、御自ら紹介を受けた事があります。」
隣に立つフォリアを盗み見ても、泰然とした様子に変わりは無い。
フォリアと何か取引でもあったのかな?
明らかに事実と違うストーリーを語っているのに、何故かこの老紳士が話すと、信憑性があるように聞こえる。
「実の娘の様に可愛がっておられたので、シルヴァンティエ様がお目覚めの際には、アーラ嬢がお近くにいらっしゃれば心強い事でしょう。不運な事故に巻き込まれたと伺っておりましたが、お姿を見て安心致しました。」
人好きのする柔和な笑みを浮かべたまま、こちらを振り返り、優雅に一礼をする。
思わず会釈を返せば、更に優しく目を細められる。
「ご記憶が一部無いそうですが、シルヴァンティエ様の元にいらっしゃれば、それもじき思い出される事でしょう。 さて皆様、そもそも、この場は少女アーラの身元の照会をするのみのはず。見ればまだまだ体調も万全では無いようですし、長引かせるのは得策ではありません。
また、シルヴァンティエ様は少女の後見にを名乗り上げる旨を、その仮面に託したと伺っております。つまりはご自分が何かあった時のみを考えて行ったこと。」
そこで一旦区切ると、老紳士は驚くべき言葉を続けた。
「そう思いますと、意識が戻られた後、皆様がお考えの通りにアーラ嬢を正式に養女になさるかと言われれば、違うのではないか。と、浅慮ながら申し上げておきましょう。」
…な、んだって?