破られた沈黙 9
「王宮に向かうのは、そんなに不安か?」
ぼわっと低い音がして、薄暗かった部屋に暖かな光が揺れる。
真新しい薪にまわった火が、薄ら寒い部屋に暖かな空気を流し込んだ。
けれども、私の胸の内に流れ込んできたのは、ひんやりとした冷たい緊張だ。
「患者の容態を聞く前に対面するなとラルシュに散々言われたからな。お前の様子はエルザから聞いている。」
シグルスはこちらを見つめたまま、書斎机に散乱した書類のうちの一枚を手に取る。
見覚えのあるその紙は、今日昼間盗み見た、私の診断書だ。
不安かだって?当たり前だ。不安で無いわけが無いじゃない。
いきなり振られた本題に、なんて答えて良いのか分からなくて黙りこむ。
記憶喪失者の正常な心理としては、王宮に早く向かいたがるべきだと思う。
『記憶を無くした不安から、一刻も早くシルヴィアに会って、過去の事を色々教えてもらいたいんです!』
・・・・本当は、そういう風情を出す事が、正解だよね。
けれども、そうする事で、色々な人に会う事になったらどうしたら良いの?
唯でさえ、シルヴィアが私の事を何て回りに説明しているのかも分からない現状で、会う人間が増えればそれだけ危険性は増す。
下手な事を言って矛盾する事は、避けたい。
だけれど、それをどう自然に伝えれば良いんだろう。
相手は油断のならない騎士団長のシグルス。
あまり王都に行きたがらない私を、不審がられたら元も子もない。
何としても、私を匿った三人を不利な立場に立たせることだけは、したくなかった。
「天候も落ち着いたし、お前の調子も悪くないらしい。そろそろお偉方を抑えておくのも限界だ。」
え?
それって。
「抑えていてくれたんですか?」
思いもかけなかった発言に、考えていた事が思わず声に出る。
王命と心得よと、半ば脅してきたのは記憶に新しい。
何が何でも、急いで連れて行こうとしていたのはシグルスで、それをラルシュが止めていたはずじゃないの?
混乱する私に向かって、シグルスは
「心外だな。重病人の命をさらして王都に向かう程、そこまで腰の低い人間では無いつもりだ。」
グラスを傾けながら、事も無げに言う。
だったらもう少し、私に対してもお手柔らかに頼みたいんですがっ。
少し恨みがましい気持ちで思うけど、本人至ってどこ吹く風だ。
「シルヴィアに後見人になるのを止めてもらう手紙を書けば、王都に行かないで済みますか?」
そんなシグルスに、ずっと考えてきた事を聞く。
後見人になる事でそこまで大騒ぎになるならば、そこには何か権利が動くはずだ。
そしてそれを辞退することで、人目を回避できるならば、そちらの方が良いように思えた。
けれども。
「…それは難しいな。」
返答に暫く間があった。
「そんなに嫌か。 何がそこまで、お前を不安にさせる。」
疑うで無く、責めるで無く、静かに問われる。
薄暗い部屋の壁に、精密にカットされたグラスが織り成す、淡い揺らめいた影が踊る。
ああ、もう。本当に、どういったら納得してもらえるだろう。
刻々と形を変えるその影を目で追いながら、ようやく重い口を開く。
「シルヴィアの気持ちは嬉しいのですが、盲目の王族に取り入った、身元も記憶も不明の女。そう思われて、猜疑の目で見られるのは心外ですし、何より怖いです。」
こちらに様子を伺うシグルスに向かって、半ば独り言の様に呟く。
暗い部屋の中、様々な姿に形を変える暖かな炎を見ながら、ぼんやりと思ったのは、結局、私は流浪の身だと言う事。
それならば、誰にも迷惑を掛けず、ひっそりと生きてきたい。
そう思ったらば、自然と言葉が溢れてきた。
「女一人、今後どうやって生きていくのか。…それを考えれば不安にならない訳が無いですよ。そんな自分の事ですらままならないのに、王宮とか王族とか、今の私には手に余ります。」
本心からだった。
記憶があろうが無かろうが、本質は何一つ変わらない。 自分の身を、自分で立てることすら満足に出来ない。
足元には不安と、猜疑と、恐怖を抱えた濁った水が、とっぷりと暗く静かに湛えられている。
その中に落ちないよう、引き込まれないよう、自分を律する事だけが今の私に出来る唯一の事だ。
好き好んで嵐の中に身を投じたい訳が無いじゃない。
「そもそもシルヴィアと一緒に、世捨て人の様に住んでいたのであれば、私を心配する人などいないのでしょう。 逆に、誰か見知らぬ人が出てきて、お前の親戚だと言われたら、私はそちらの方が怖いです。……記憶はゆっくり戻る事も多いと聞きました。ならばそれを待っても良いと思っています。」
自分の言葉を、どう解釈されるのか。そして私は今後どうなっていくのか。
それを考えれば、恐怖と不安で自然と声が震える。
お願いだから、どうか私の事は放って置いて欲しい。そんな私の声なき声は、この男に伝わったのだろうか。
こみ上げてきた様々な思いが、私の胸を冷たく塞ぐ。
結局、それ以上言葉を続けられなくて、小さく俯いた。