破られた沈黙 5
「はてさて、私の患者の具合は如何かね。」
シグルスが出て行ってから、どれぐらい呆然としていたのか。
杖で扉を叩く音と共に、腰が曲がった小柄な老人と大きな革鞄を持ったエルザが入ってきた。
「…先生。」
「あぁ、体を起こすでない。しゃべるでない。 先に横になりなさい」
てきぱきと大きな黒い革鞄から医療器具を出すと、いつものようにサイドテーブルに乱雑に並べ始める。
薬草とアルコールのツンとした匂いをまとう、この小柄な老人は、ラルシュ。
この館に来てからの私の主治医だ。
「シグ坊から話は聞いておる。酷い顔色だの。気分はどうだ?」
あんな話を聞いておいて、良いわけがない。
王命。後見人。国議貴族院。王位継承権の破棄。
聞いたばかりの単語がぐるぐると脳内を駆け巡る。
シルヴィアは王族だったのか。とか、国議貴族院の意味。何が知られていて、何が知られていないのか。
ぐるぐる、ぐるぐる、熱で浮かされた頭の中を、色々なものが駆け巡るけれど、全く頭が働かない。
正直、何も考えていないに等しかった。
あ、考えが錯綜するって、こういう事を言うんだなって思ったら、少しだけおかしくなった。
エルザの手を借りて横になった私の額に、老人特有のざらざらの手が置かれる。
「あぁ。また熱が上がっておるの。あいつは、重病人相手に無理をしおってからに。」
考えがまとまらない私の気持ちを読んだかのように、今はとりあえず何も考えるなと諭される。
「わしの所見を聞いてから患者と面会するようにと伝えておったが、あやつは頑固でいかん。」
常に口角の下がっているラルシュは、薬の瓶を振りながら、更に不機嫌そうにため息をついた。
「昔は可愛かったのにのぅ。エルザと二人並ぶと姉妹のようでな。」
信じられんじゃろ。と、上目遣いに眉と片方の口角を上げると、皺だらけの不機嫌そうな顔が、驚くほど愛嬌のある顔になる。
相変わらず、どことなく憎めない老人だ。
老魔術師のロワンが喰えない老紳士とするならば、ラルシュは下町のお医者さん。
少し口は悪いけれど、その分、人との距離は近い。
小さな体を伸ばして、あっかんべーをするように、私の目の下のまぶたを引っ張り、喉を見てから首の左右を触る。
呼吸音の確認や、脈を計ったりと、至極医者として全うな動作を一通りこなすと、ベッドの横の椅子に腰掛けた。
「酷い咳と血痰は出なくなったと聞いたが、喉の扁桃腺の肥大がまだ酷いの。これではまだまだ喉の痛みも相当なはず。薬を少し変えるとしよう。熱もまだ油断がならん。……呼吸音も大分正常に戻ってきたが、まだ無理をすると息苦しいはずじゃ。
外傷は…………サラシを巻いていたお陰で体幹、つまり胸部や腹部が保護されていたのが幸いしたか。問題の木片が入り込んでおった肩の傷口は……あぁ、色も悪くないの。応急処置が良かったんじゃろ。」
一番大きな傷である、右肩の包帯を取ると、たっぷりと消毒液を含んだ布を押し当てられる。
ぃいっっったぁぁぁぁ!
毎度の事ながら、消毒液の刺すような痛みに悶絶する。
「体力も落ちているから、傷口からの感染が怖い。我慢せい。死に至るよりはマシじゃろう?」
死に至る傷口からの感染って、破傷風の事?
破傷風が怖いのは良く分かってるけど、仕事柄、大人になってから抗体が弱くなっていたものは、全部予防接種を受けなおしている。
それが異世界で通じるか分からないけれど、ひとつでも半分でも安心できる材料があることは良い事だ。
未知の風土病やウイルスで苦しんで死ぬのとか、そう言うのはやっぱり嫌だしね。
ぼんやりと、そんな事を考える私をよそに、少し乱暴に、けれどもきっちりと、あちこちの傷の具合を確かめながら、一つ一つ薬をあてがわれる。
その度に感じる消毒の痛みに、先程のシグルスの会話が脳裏の遠くに押しやられた。
それは熱や痛みで思考の限界だったのかもしれないし、精神の限界だったのかもしれない。
どんなにエルザが良くしてくれても、ラルシュが治療を施してくれても、本当の意味での心の安寧とは程遠い。
ましてやシグルスが目の前に現れるまでは、いつ来るか、今後どうなるのか、ずっと緊張し続けていた。
今だけは、もう何も考えたくなかった。
「一時的な記憶喪失も見られるそうじゃの」
私に尋ねながら、幾つかのガラス瓶から、緑や茶色の粉末を取り出してプレートの上で混ぜる。
無言で頷くと、生薬の何ともいえない匂いが鼻についた。
「エルザからも言語の混乱は聞いておったが、今のところ日常生活に大きな支障は無いとも聞いておる。」
あぁ、そうか。
あまり声を出さないようにしていたとは言え、エルザとは少し会話もしてるから、一番最初に異変を感じたのは彼女だろう。
けれども、不審そうな顔や、問い詰められた事は一度も無い。
不思議に思って、エルザの顔を見ると、いつもと同じように、はにかんだ様にふんわりと笑う。
この仔リスを思い出させるようなエルザと、狼や北方犬種を思い出させる、あの男が兄妹とは、なんかの間違いじゃないのか。
まぁ髪の色と瞳の色は、確かに同じだけれどさ。
あぁ、遺伝子の神秘。
「こんなもんじゃろ」
ぼぅっとエルザの顔を見ていたら、医療道具をしまい終わったらしいラルシュが、エルザに毒にしか見えないような色の小瓶を渡した。
う。また今回は一段と凄い。
生薬を煮詰めた、滋養たっぷりのお薬なんだろうが、こちらの世界の薬は、青汁を100倍濃くして、温めたような味。
良薬口に苦しとは良く言ったもんだ。
えぐくて苦くて、飲み下すだけで一苦労。病も裸足で逃げ出しそう。
「不安かもしれんが、しかし、まずは体を治す事に専念することじゃの。記憶は自然と戻る事もある。日常動作が気にならないなら、無理をするこたぁない。」
薬の飲ませ方と共に、少なくともあと5日間は絶対安静で動かせない事、その間シグルスを含む他者の面会謝絶をエルザに命じる。
物言いはぶっきらぼうだけれど、主治医としての責任を感じてくれているらしい。
「今度、わしの忠告を無視したら、二度とこの館には来んとシグ坊に言っとけ。騎士団の連中も診んぞ。こんな重病人に無理させるとは、騎士団長が聞いてあきれるわ。 元王宮付医師の名にかけて、わしが許可するまでは、王都への移動なぞ禁止じゃぞ!」
よかった。明日、いきなり王都につれてかれる事はないみたい。
その他細々した注意をするのを聞きながら、深く安堵する。
生薬よりも何よりも、ぶっちゃけ、それが一番の薬だった。