ロアの祝祭 11
ゆらりとゆらりと立ちのぼる、シャムールの狂気。
自分の後ろに隠そうとする、レジデの腕に力がこもる。
今はじめて感じるソレは、皇帝のものよりもずっとどす黒く、重く、気おされて声が出ない。
対応を間違えれば今すぐにレジデも私も、その矢に胸を貫かれる――そんな現実に、密偵を長く勤めたレジデですら、次の一手が取れずに体を強張らせた。
「レジデール」
体に感じた二度目の大きな振動に、ふいにシャムールがレジデの名を呼ぶ。
実験サンプルとして生を許されたレジデと、若くしてこの大神殿の長を務めるシャムール。
大神殿に育てられた対極の二人が、静かに向き合う。
「お前に特別に、この隠し通路の秘密をお教えしましょうか。……ここは以前、神子姫候補に逃亡されてから、幾つかのカラクリが追加されたのですよ。」
「カラクリ……?」
「ええ。光気を宿したランプもしくは人間が、あの床の上に立つ――その間だけ、隠し扉が開きます。」
持っていたクロスボウで指した先には、他のタイルとよく似ているけれども、ほんの少し色味が異なる床が、確かにあった。
「何故――俺にそれを教える……。」
慎重にたずねる声。
「お前にも縁のある話ですからね――。ほんの気まぐれです。特別に、気が向いたのですよ。」
警戒を解かないレジデに、シャムールが微笑む。
シャムールが、何故それを教える気になったのかは分からない。
けれど、その次の言葉に引っ掛かりを覚えた。
「神殿内に、必ず光気が残るようにされた仕掛けです。そもそも、この秘密画廊の扉も、二人が光気を宿していたから開いたのです。」
その言葉の意味を反復するにしたがって、認めたくない事実が浮かび上がる。
ねぇ。ちょっと待って……。それって――。
「それってつまり……。」
「二人が全てのカケラを処分した以上、貴女とレジデール。二人が同時に逃げることは出来ない。そういう事です。」
その言葉に、意味に、愕然とする。
――運命は皮肉ですね。
落雷を思わせる振動音を背に、そう。美しい天使の姿をした悪魔が、微笑んだ。
「行って下さい。」
永久にも感じた時は、それでも時間に直せば、ほんの一瞬の出来事だったのだろう。
迷う事無く、レジデが私を隠し扉に押しやる。
そしてそのまま、件のタイルを目指そうとするレジデにぎょっとして、
「一人で逃げれるわけ無いでしょう!!」
そう叫びながら、目の前の腕にしがみついた。
ここで二人のうちどちらか一人が残るならば、それは迷うことなく――私だ。
私ならば、絶対に殺されることはない。
たとえ皇帝の顔に泥を塗り、脱出に失敗したとしても、『子供を産める可能性のある、記憶のあるテッラ人』を、処刑するかといえば、それは――否だ。
「だからこんな無茶な計画でも、全力で遂行しようと決めたでしょう!? だから先にフォリアを逃がしたんでしょう!?」
レジデの本気を感じて、焦りながらも必死に言い募る。
すると、全体重をかけて縋り付いた腕が、ふいに抵抗をなくした。
「貴女がどんな扱いを受けるか想像がつくのに、本当に置いていけるわけ……無いでしょう。」
苦笑したような、けれどもどこか優しい溜息。
ずっと私を背中で庇っていたレジデが、ようやっと私を振り返り――目を合わせ、小さく笑う。
その優しい琥珀の瞳を見つめられたまま、いつの間にか、すがりついていた腕が私の腰にまわった。
「――ぇ……っ?」
ぐいっと引き寄せられたのに、合わされた柔らかな唇は優しくて。
縋り付くようなキスでも、粗ぶるようなキスでもなく。情欲を含んだものとも違ったキスは、慈しみが形になったようなもの。
ほんの一瞬の、ただただ優しいキスに、言葉もなく驚愕していると――そのまま壁に向かって流れるように開放されて、思わず小さくたたらを踏んだ。
「ちょっ、レジデ!!」
肖像画の額に軽くぶつかながら、慌てて後ろを振り返る。
けれどももうレジデは私の手の届く距離にはいなくて――。
「それ以上――来ないで。」
慌てて駆け寄ろうとした私の足を止めたのは、そんな彼の言葉ではなく。
レジデがどこからか取り出した、小さな懐剣。
――いぶした銀の細工の、今の今まで私の胸元に入っていた筈のもの。
「――……――っ!」
彼のその真意が分かった瞬間、喉から声にならない悲鳴が上がった。
「あと一歩でもこちらに来たら――この場で首を切ります。」
「!!」
美しい乙女たちの肖像に囲まれて微笑むレジデと、その後方に、最後の審判を見守るシャムール。
前にも後ろにも進めず、瞬きすら出来ない私に、レジデは微笑む。
「貴女が残って私が逃げるくらいならば、今すぐ此処で自害します。……それが嫌なら、逃げて下さい。」
あなたは生き延びて。
優しく笑いながら、そう伝えるレジデの笑顔が。
――今までで、一番……。本当に、嬉しそうでっ!!
「ふ、ざけるなぁぁぁぁっ!!」
怒りと、驚愕と、悲しみと、焦燥と。
ありとあらゆる強い感情がない交ぜになって、喉から憤怒の叫びが響き渡る。
遠くから聞こえ続ける振動音も、細い秘密画廊の天井から落ちる漆喰も。
まるで、私のその叫びのせいで、巻き起こしている――そんな錯覚すら感じても、少し困ったように微笑む彼の様子は変わらない。
「元より最後の仕上げは――このつもりでした。私のしてきた細工は、確かにこれから神子姫に仕立て上げられる少女たちを、救ったかもしれません。……けれど――生れ落ちて殺された『彼ら』のことを思えば、言葉もありません。」
「――っ…!」
十二の歳から「繁殖」をしていた。その意味。その重さ。
幾多の赤子を抱いた私には、『彼ら』と言う言葉が指し示す先は――あまりに重い。
生き残るためには、仕方なかったんだ――。
人間、自分が一番大切だ。
……そう思い込める人ならば、違ったろう。
思い込めなかった彼は、何を思って生きてきた?
一日一日と、異国の地で、ランプの部屋で、こんなにも穏やかな瞳になるくらい――。貴方は何を思って生きてきたの……。
いつの間にか、喉から上がっていた怒りの叫びは、彼方に消え去り――かわりに掠れた空気のような声が、いやだと、小さく繰り返す。
さぁ。もう、行って下さい。
「ただの一人も生き残れなかったと聞きました――。ならば、きっとこれが……、彼らへ出来る唯一の罪滅ぼしでしょう。」
滲む世界の奥で、レジデの持つ銀の先端が持ち上がった。




