信ずるもの 7
――どうか、幸せに。
琥珀色の瞳が優しく笑む。
傷つき膝を突いたレジデの、それが最後の言葉。
私が何か言うよりも前に、その泣きそうなくらい、綺麗な、儚い笑顔を伏せる――と、命が流れ出る右の腕を、地につけた。
瞬間。急激に感じる、あの不可思議な圧。
あまりの衝撃に、麻衣子の身体を抱えたまま、思わず体がよろけた。
「――っ!」
何、これ――っ。
これは、……先ほどの呪の続き?!
――魔法陣は壊されたのに、麻衣子も死んでしまったのに、どうして!
どんどん強くなる圧に、耐えられる術も無く、身体が沈む。
辛うじて自由になる視線で、必死にレジデの姿を追う。
その私の前に、一条の赤い線がさぁっと走った。
「――…!!」
進む文字。
どんどん強くなる圧。
滲む光と、周囲のどよめき。
生き物のように意思を持ち、私の周りにぐるりと真円を描きながら進んだそれは、内側に入り込むと、折れ重なるようにして、複雑な文字を描き始める。
……やめて。
やめて、誰か止めて!!
「レジデっ!!」
流れる血潮で描く魔法陣。
それがどれだけ強いものか、どんな意味を持つか知っている。
初めてシャムールの顔色が変わった。
「止めろ!!神子姫様をお救いしろ!」
「駄目です!もう術が走り始めております!!今、術者を殺すと、術の完成が早まるだけですっ!!」
術者の命を削り、最後の鼓動で発動する『呪』よりも強いものなんて無い。
慌しく動く男たちの前で、麻衣子とレジデの合わさった血が、私の周りに複雑な魔法陣を走らせる。
血の気が引いて、土気色になったレジデの顔に、浮かぶ汗。
浮かされたようにつぶやく呪を、必死に止めようとするも、既に何かの強制力が働いているのか、誰もレジデに近づくことすら出来ない。
最初から、彼はこれを覚悟していたんだと分かっても――、そんなの、認められるわけ無いよ!!
あまりに強い圧に、体を起こす事も出来ず、それでも必死に顔を上げる。
滲む汗と涙の向こうで、どんどん描かれる魔法陣。
私を支え続けてくれた、トーコと笑う、もふもふの姿。
苦渋に満ちた表情のレジデールの姿。
必ずあなたを帰しますと、強い決意を示してくれたあの夜。
――麻衣子が死んだ今、この瞬間を逃せば、二度と帰れない。
それでも……!!
「残るから!!ここに、残るから!!――お願いだから!」
すべてを捨てても良いから!
だから、お願い!!
――死なないで!
そんな私の叫びすら、土気色の顔をした彼の心には届かず、霧散する。
指一本動かせない強い圧に、遂に顔を上げることも出来なくなり、完全に地に落ちる。 恐怖と絶望で、涙と共に喉の奥から悲鳴が上がった。
「あなたの命より大切なものなんて無いからっ!! お願いだから……誰か止めてぇっ!!」
叫びが天に届いたのか。
パァン!と、小さな破裂音と共にレジデの呪が止まり、代わりに、くぐもった呻き声が聞こえる。
圧が、――とまっ……た?
ぜいぜいと、笛のような自分の呼吸音がうるさい。
滲む汗もそのままに、ぶるぶると震える腕を叱咤しながら、肩で息をし、顔を起こす。
「弱い――痺れ薬です。」
はじめて見る怒りを滲ませたシャムールが、倒れ伏すレジデに吐き捨てる。
その傍には、遠くから投げたと思われる、小さな袋が転がっていた。
「油断しましたよ。レジデール。」
憎憎しげな表情。
手を上げたシャムールに、後ろに下がっていた弓兵が、もう一度矢を番える。
「天空人を天へ帰す。……これ以上の大罪があるとは、到底、思えません。」
レジデに向けて一斉に絞られた弓矢。
「健やかな子を産んで頂くためにも、これ以上、神子姫様の前での殺生は控えようと思っていましたが――」
続く声が、遠くで聞こえる。
その意味が分かった瞬間、石造りの部屋にくぐもった笑い声が響いた。
「くっくっくっく」
「……?」
「くっ、あーっはっはっは!」
「………姫?」
辛うじて上半身を手をついて起こした私が、いきなり狂ったように笑い出した事に、シャムールだけでなく、信徒も弓兵もぎょっとする。
そっか。
そう言うことだったの。
「そう。あなた達、私に子どもを産ませるつもりだったの。」
だから麻衣子では、シルヴィアでは、意味が無かったの。
もう子どもを産めないから。
テッラに帰られるぐらいなら、ランプにした方が良いと、――そういう考えだったか。
何て軽い命。
何て、何て、馬鹿馬鹿しい……っ。
「レジデを殺したら、私、子どもを産めないわよ。」
体をよじって笑っていた私が、くすりとシャムールの顔を見上げる。
「姫。レジデールを守りたいのは分かりますが、根拠の無い、はったりは好ましくありません。お止め下さい。」
「違うわよ。月の物が無いのに、どうやって子どもを産めるのよ?」
「――…!」
「あなた達がレジデを殺せば――私が何をしなくても、程なくして私の命も尽きるわ。」
「それは、どういう――。」
「――…ねぇ、レジデ。私が若返っている理由も、同じでしょう?」
「――!!」




