信ずるもの 3
震えた長いまつ毛。
通った鼻筋とふっくらと稜線を描いた頬が、やつれて尚、彼女が美しい人だと思わせる。
甘い香の残り香を打ち払うように、もう一度だけ名を呼べば、ぼんやりとしながらも、その黒い瞳がゆっくりと開いた。
「大丈夫ですか?……私が、わかりますか?」
寝台の横に座り、覗き込むように日本語で話しかける。
焦点の合わない、とろんとした瞳を向けられながら、自分の中の恐怖心を抑えながら、微笑む。
すると、「橙子、先せ…い?」と、かすれた、あどけない声が、耳朶をくすぐる。
不思議そうな顔で、小さな子どものように、私の髪に手を伸ばそうとして、……これが夢ではないと悟った瞳に、危うい狂気の色が瞬時に浮かび上がる。
――いけないっ!
「うぁ、ああああっ!」
がしりと掴まれた髪を強く引かれて、寝台に横になったままの麻衣子の上に倒れこみそうになり、辛うじてついた片腕で体勢を維持する。
「っう……!」
「ど、うして!どうしてっ!!」
彼女にとって、もはや眠りの世界しか安寧の地は無いのか。
痛みを感じる位に、ぎりぎりと引かれる髪。
間近で見る、狂おしいほどの感情を宿した瞳。
「―――っ!」
とっさに、こちらに来ようとした二人を、残った片腕を後ろ手に突き出して、強く拒否する。
「こんな、こんなっ!――許さない!!!」
「……っ!落ち着いて下さい!!麻衣子さん!」
何度だって、殺してやる!と、一層深くなりそうな狂気を叫んで止める。
「渡さない!絶対に渡さない!優一郎さんも、あの子たちも、絶対にっ……!!」
憎悪と狂気と混乱と。
飲み込まれないようにと必死に自制しながら、支離滅裂な言葉の中から、夢中で意味ある言葉を拾い上げる。
「落ち着いて下さい!――…っ!誤解です!!誓って言いますが、ご主人とは何もありません!」
「よくも!よくもっ!」
寝込み続けていた人の力とは到底思えない両腕を、それでも体重をかけて寝台の上に押さえ込むと、今度は膝を使ってお腹を――下腹部を蹴り上げようとする。
明らかに、常軌を逸したその執拗な行動に、衝撃が走った。
「落ち着いて下さい!何があったんですか!」
それよりも。
「誰に、誰に会ったんですか!!」
そう言いながら、血走った目で支離滅裂に叫ぶ姿に、確信があった。
彼女は会ったのだ。――麻衣子の夫の両親、義父母に。
田舎に似合わない、線の細い、あどけない美しい都会の女性。
決して悪くなかった夫婦仲。
それなのに『遠藤』ではなく、『麻衣子』と呼んで欲しいと言ってきた時の、嫌悪感のこもった思いつめた顔。
第三者が迎えに来ても、娘達を絶対に渡さないでくださいと、時折見せた何かに怯える姿。
嫁ぎ先の両親と上手くいってないのだと、漠然と思ったことが確かにある。
けれども、何故それが。
「もしかして、不倫しているだけでなく、ご主人のご両親と通じていると思ったんですか!?」
「よくも……、よくも、抜けぬけとっ!!」
寝たきりだった人間とは到底思えない力で、ぎりぎりと押し返される。
喉笛を噛み千切る勢いの麻衣子と私の間に、いつの間にか二人の男が入り込む。
嫁の両親は若くして他界。
自分の両親は海外にいるのだと、麻衣子の旦那に直接聞いた事がある。
それなのに、何でここで!?
「しっかりして下さい!ご両親は、海外にいらっしゃる筈でしょう!?」
麻衣子から引き剥がされながらも、半ば叫ぶようにして返した言葉に、暴れる麻衣子が硬直し、まじまじと目が見開かれる。
「………――う、そ。」
「もしかして、お姑さんが来たんですか?そして何か、言われたんですか?」
ぶるぶると、震える身体。
瞬き一つせず、私から真実の欠片を見つけ出そうとする瞳から、搾り出すような声と涙が溢れた。
「あ、なたが、貴女が、妊娠したと!!遠藤家の跡取りを産む女性を見つけたと、彼から――息子から電話があったから帰国したのだと!」
「……っ!」
魂が引き裂かれるような、……こんな悲痛な叫びを聞いたことが無い。
あふれ出す涙と共に、半狂乱になった言葉を必死に拾う。
跡取り息子を産まない、遠藤家にふさわしくない、病弱な嫁。
陰惨な嫁いびり、女腹。
住んでいる所も連絡先も、誰にも教えずに行った、夜逃げ同然の引越し。
それなのに入院先に突如現れた姑と、顧問弁護士に突きつけられた離婚届。
『あの娘たちも新しい母親に、もうすっかり慣れているようですからね。あなた出てくると混乱します。不出来な母親が消えれば良い事。』
『私も話してみましたが、非常に気に入りました。彼女ならば無事新たな跡継ぎを産み、立派に遠藤家の嫁を勤めることが出来るでしょう。』
再現されたあまりの言葉に、愕然とする。
「ちょっ……!違いますっ!もし、万が一、その話が本当だとしても、相手の女性は私ではありません!」
「嘘よ!橙子先生と親密そうにしている写真を見たわ!!離婚届だってユウイチロウさんの字で記入済みだった!」
離婚してもこんな欠陥のある母親では、幼い二人の娘たちを育てられるわけが無い。
新しい母親もいることだし親権も諦めろと、そう説明を受けたと、フォリアに押さえつけられながらも、滂沱の涙を流しながら、狂ったように叫ぶ。
「信じてたのに!橙子先生のことだけは、信じていたのに!!――なのに私から、全てを奪った!」