アランタトルの檻 25
帰る。
元の世界に、戻れる。
その現実に、様々な感情があふれ出し、かえって実感が伴わない。
彼らに危険は無いのか、本当に戻れるのか。
麻衣子は元の世界に戻れば、延命できるのか。自分の傷も、どうなるのか。
時間は、場所は、どこに戻れるのか。
浮かんでは消えるすべてが、磨りガラスを隔てたように、現実味が無い。
行きと同じく、暗闇のトンネルを抜けながら、時間を逆行しているような、不思議な感覚に捕らわれながらも……、それでも「帰らない」と言う選択肢だけは私には無いのだと、ぼんやりと思う。
このまま残れば、シルヴィアや、様々な大切な人たちを追い込み、何よりも二大大国の戦争の火種という、自分の手に到底負えない、現実が待っている。
たとえ、離別が自分にとってどんな意味を持とうとも、その現実の前には、自分の感情なんて何の意味も無い。
ようやく向き合えた郷愁の思いに全てを包み、今は唯、帰る事だけを……考えよう。
暗闇の小道から、静まり返った自室に滑り込む。
分厚いカーテンに覆われた部屋の中は、相変わらず暗かったけれど、深夜独特の重さを持った闇は、少しずつ解けてほどけてきている。
もう間もなく、朝焼けを迎える時間だろう。
完全な和解――…と迄は、いかなかったけれど、それでも一時休戦位にはなった三人が、今後の話をしながら、別れたのは深夜を大分過ぎた頃。
三人の空気が、以前のように戻ることは無かったけれど、それでも状況を考えれば、当然で。
道中、一言も無く、私を部屋まで導いた男の手が、ふっと離れる。
――…では。
小さくそう言って、そのまま闇にとけて消えようとした男に、考える間もなく、「待って」と、名を呼び静かに呼び止める。
呼び止められるとは、思わなかったのだろう。
後姿のまま、小さく震えた肩に、一瞬逡巡して、視線を落とす。
けれども、意を決して息を吸い、
「レジデ。待って。」
と、もう一度、同じ名を呼んだ。
「………。」
無言のままの彼に、水差しから小さな布に水を浸して近寄り、少し背伸びをして男の首筋を拭う。
すでに血は止まっていたけれど、ただでさえ血流量の多いところを傷つけたのだ。
化膿すると後が怖い。
そうして、息を潜め、固まったように動かない男の顔を見ないまま、ごく簡単な手当を続ける音だけが静かに響く。
うっすらと淡く長い、二人の影。
いつの間にか、長かった夜が明けるように、厚いカーテンの向こうから、白々とした夜明けの光が滲んでいた。
「ショックがなかったと言えば……嘘だよ。」
顔を上げずに、そう独白する。
「でも、最初からクリストファレスに連れてくるつもりだったら、――…あなたなら、もっと簡単に私を……騙せた。」
――だから、……ありがとう
テッラは平和な国だったけど、独裁国家がなかった訳ではない。
本国に私を召還したと差し出せば、レジデールは多大な栄誉を与れたはずだ。
にもかかわらず、徹頭徹尾、私を元の世界に返してくれようとしているその姿勢は、――彼の難しい立場と、頑冥なほど自分に厳しいさまが見て取れた。
それは、まごう事なき、私の知っている、レジデでのままで。
本国に監視されたまま、その目をかいくぐり、私をテッラへと帰そうとあがいた男は、私の一言一言を、立ちすくみながらも、一言も逃すまいと全身で受け止める。
単身、身の危険を顧みず、助けにきてくれたフォリア。
そして、その対極にいるかのように見えた、隣国の密偵レジデール。
けれども、『白い鳥』になった事で、水面下で静かに動く事の難しさも、国という巨大な生き物が、どれだけ人の気持ちを踏みにじるかも、今の私は……知っている。
静かに穏やかに私を護りながら、一体どれだけの、静かで激しい戦いを、その影で繰り返したのだろう。
私が知らなかっただけで、レジデは、最初からずっと……それこそ命をかけて、私を護り続けてきてくれたのだ。
これで、もう一度裏切られたとしても、それで良いじゃないか。
目の前にいる彼は、今迄と何一つ変わらない、私の知るレジデなのだと――…そう、自然と思った。
「だから、――ありがとう。」
万感の思いを込めて、伝えた言葉。
その一言で、あっと思う間もなく、強く抱きしめられた。
「………!」
衣擦れの音と肌で感じる男の鼓動、呻くような息遣い。
トーコと呼ぶ、かすれた低い声が耳朶にかかる。
その苦しいくらい切ない色を帯びた声に、鼓動が跳ね上がった。
「何故、ここまで傷つけられて、そんな事が言えるんですか。」
呻くような掠れた声に、呼気を直に感じて、肌が粟立つ。
女ではありえない、その力の強さと、男の体温に、幾らか年は上なのだと知っていたけれど――、彼が年齢を重ねた自分と変わらない一人の男なんだと、五感を通じて思い知り、思わず動揺する。
「レジ、デっ……」
見知った二人の男と比べて、小柄だと思った身体は、それでもこうして抱きしめられれば、戦う事など考えもつかない故郷の男たちとは、比べるべくも無い程、力強く、俊敏で、逞しい。
「本気で笑ったのも、怒ったのも、思い出すのも困難な程、遠い昔です……。」
たとえ姿は人ではなくとも、貴女の前でだけ、私は人間になれた。
――出会えて良かった、とも、過ごした時間が楽しかった、とも、決して言える筈のないレジデが伝える精一杯の言葉に、……フォリアに抱きしめられた時のように、冗談にして逃げる事も出来なくて、混乱を押さえ込めない。
そんな私の動揺に気がついたのか、ふと抱きしめられていた力が緩み、安心させるように、ぽんぽんと、私の背を叩いた。
「――貴女は、私と同じ運命を辿っては、いけません。」
今まで――こんなに胸に迫るような、優しく穏やかな声を、聞いた事なんて無い。
大好きだった低く豊かなヴァリトンボイス。
落ち着いた重低音のその声は、柔らかく落ち着いた物腰と、理知的な瞳にはよく似合う。
異世界で足掻きながら、人の目を掻い潜って、生きてきた。
けれどもそれは、レジデも同じだったのだろう。
教団に監視管理され、息を潜めて私を守っていたんだ。
抱きすくめられたレジデの後ろに見える、先の見えない暗い闇に、私の後ろから差し込む淡い光が、うっすらと柔らかな影を作る。
「どうぞテッラに帰っても、あなたの行く道に幸せがありますように。
そしてどうか、私の事を許さないで下さい。」
額に落とされた柔らかな唇と、静謐な微笑みを残して、……男は闇に溶けいる。
――愛しています。
何故だか、そう伝えられたような気がして、見開いた目で、瞬きひとつせず、闇を見つめて立ち竦む。
気がつけば、鳥肌の立つ腕を、自分の両手で抱きしめる。
夜明けの光が滲む部屋で、……ただ後から後から、涙が零れていた。