アランタトルの檻 17
「――…何も知らせず、帰したかった。」
小さく耳に落とされた言葉と、悲しげな笑み。
「――…あの神子姫が、あの女性が、マイコなのでしょう?」
月明かりの下、確信を持った顔で問いかける、男の言葉の意味も分からない。
ただ、あまりの事に呆然とする私の身体をゆっくりと椅子に座らせると、男は私の前に跪くようにして、静かに話し始める。
「彼女がマイコなら、星屑のランプが集まっている今ならば……今度こそ、あなたをテッラに帰せる。チャンスは一度しかない。――その前に、何とかしてフォリアを助けたい。」
「フォリアを……」
助ける?
彼の口から出る、数々の言葉が理解できない。
けれども、その一言で麻痺していた思考が、ようやっと動きだす。
助けられるの?その前に、どうしてあなたが……。
そう思った瞬間、理屈じゃない――目も眩みそうな程の強い怒りと、強い憤りが湧き上がる。
目の前にいるのは、フォリアと最も敵対しているはずの男。
その今更な発言に、床に落ちた視線を強く上げれば、月明かりに照らされた男の真剣な顔と向き合う。
そこには私の知る愛らしい琥珀の瞳も、もふもふの縞の毛並みも無い。
どうかお願いします。協力して下さい。――と、真摯な、けれども隠し切れない苦渋を滲ませた低い声だけが、辛うじて記憶のものと一致するばかりだ。
柔らかそうな焦げ茶の髪も、理知的な瞳も、難しい顔が似合わない穏やかな顔立ちすら、今はじめて見た気がする。
――ああ。そうか。
おぼろげなシルエットで認識することしか出来ないくらい……、私は『レジデール』を、そして現実を、受け入れられなかったのか…。
そんな自分の気持ちに気がついて、焦げ付きそうなほどの怒りは、冷たい水をかけられたように一瞬で消え去り、胸の奥にその残滓が、ずんと重い痛みを走らせる。
そうして改めて一人の男性である、レジデールに意識を向けてみれば、目の前の彼は、フォリアのように人を強く惹きつける秀麗な容姿でも、シグルスのように頑健な身体つきでも無い。
美醜で言えば、醜いわけではない。どちらかと言えば整っている方だろう。
けれども、痩せぎすの身体は、こちらの世界の人としては少し小柄なくらいだし、こんな黒尽くめの服装でなければ、市場の雑踏に紛れてしまいそうな、ごく普通の青年に見えた。
そんな戦いや、国家機密からもっと遠そうなレジデールは、まるで研究書物を解説するかのように、この上なく物騒なことを話し出す。
「今彼は、シルヴィアやあなたとの繋がりで、辛うじて命を長らえている。ファンデールに対する、皇帝の怨みは深い。――このままなら良くて、フォリアを恨む異母弟のユリウスに下げ渡されるか、最悪クーデターの主犯にされるでしょう。」
「…クーデター?」
「はい。」
私の問いに、難しい顔で頷く。
目の前の男の、真剣な、それでもどこか痛みをこらえるような声も、真摯な瞳も、到底一国の中枢にもぐりこんだ隣国のスパイには見えない。
けれども、それすら計算されつくした物だろうと言う事は、この国来てから痛いほど、経験した。
何よりも、余りに手痛い経験が、目の前の男を信用するなと、これ以上騙されるなと、全力で警報を発する。
「クーデターの主犯……って、濡れ衣にしたって、無理があるわ。第一級容疑が晴れ、猟犬にまでなったフォリアが、クーデターを起こす筈が無いじゃない。」
ファンデール王国の勢力図を考えながら、慎重にゆっくりと言葉を返す。
すると、「猟犬……ですか。」と、複雑な顔でレジデールが答える。
「フォリアが第一級容疑を掛けられたことを知らない人間は、王宮にはいません。……ですが、『猟犬』と知っている人間は、少ない。――ユリウス公爵は、ロワン老ごと国家転覆罪をなすりつけるでしょう。」
「国家転覆罪?」
それは中央集権の法治国家で、もっとも重い罪だったはずだ。
「間も無く、クリストファレスはファンデールに攻め入ります。――しかし皇帝と教団が欲しているのは、荒れ野の大地では無い。商業も盛んなままの美しい水の都と、カケラを貯蔵したままの、時の館だ。」
「………。」
「最も簡単な支配は、力で完全に滅ぼす事ではありません。ファンデール国王一家を打ち取り、その罪を複雑な生い立ちのフォリアになすりつけ、王位継承権を持っていたシルヴィアを、その傀儡の地位に立てる。――これが最も簡単な方法です。」
淡々と話された内容に混乱する頭に、手をやる。
「無理が……ありすぎるわ。」
計画ともいえないほど、無謀な計画なのに、まるでレジデールはこの計画が、完遂されることに確信があるかのような口ぶりだ。
「例えば?」
その静かな問いに、一瞬言葉につまり、シグルスの所で習った知識を精一杯広げる。
ファンデール王国は、肥沃な大地と運河以外にも、魔術学院と時の館を持つ、魔術大国だ。
対して、クリストファレスは北の軍事国家とはいえ、白兵戦を得意とする国。
ファンデール王国のお得意の精霊魔法を利用した先制攻撃は、元の世界言えば、長弓や銃が先陣を切る戦いだ。
つまり戦いになれば、どうしたってクリストファレスの分が悪い。
ファンデール王国は、魔術具の利用レベルも高く、軍事の魔法利用も、勿論、抜きん出ている。
それでもこの二国が、時に小競り合いを起こしながらも、長いこと隣人でいられたのは、クリストファレスが南下するには、魔術大国は強大すぎ、逆にファンデールが大量の魔石を求めて北に攻め入るには、魔法が上手く使えない北の大地は、難解すぎたからだ。
そんなに簡単に、クリストファレスが勝てるとは思わないし、ましてやフォリアを内通者に仕立て上げ、王都を戦火に巻き込まないなんて、老人の夢物語に過ぎないはず。
それを伝えれば、本当に良く勉強したんですね。と、小さく苦笑いされ、そして真顔になる。
「ならば、もし、魔法が使えないと言う問題を、教団が人為的にコントロールしているなら?」