アランタトルの檻 16
ぼんやりと、月の光だけが入る部屋。
座る窓辺の椅子に、虚脱した身体を預ける。
身体の重さは、薬が残っているせいなのかもしれないし、余りの衝撃的な一日に呆然としているせいなのかもしれない。
そう考えながら、人の言葉も理解出来ない程だった自分が、こうして『普通』にしている事が何だか滑稽に思えて、自嘲の笑みが小さく浮かぶ。
不思議なほど静かな気持ちで、冴え冴えとした月を見上げていると、
麻衣子の装束姿。
捕らえられたフォリアと手の紋章。
リルファたちの目に浮かぶ、狂信と畏怖。
次々と情景が浮かぶ。
そんな情景に、静かに思いを馳せていると、ふわりと髪が頬をくすぐった。
――…?
ふと振り返れば、部屋の一角に月の光も届かない、黒い闇を見る。
あんな所に、隣の部屋へ続く道なんて、あったろうか…。
疑問に思い、椅子から立ち上がる。
刹那。
風が、動いた。
薄暗闇の中、なお暗い闇が私の後ろに回り込み、立ち上がった私の身体に覆いかぶさる。
黒尽くめの男の、口元を押さえる手も、腰に回された手も、私の知らないもの。
けれども、
「静かにっ……」
耳元に落とされた、低く聞き慣れたバリトンボイス。
その声に、体中の細胞が震えた。
「……!」
耐えられない!
脳裏に浮かぶ拒絶の言葉と共に、ぶわりと吹き上がった生々しい感情で、ようやく気がついた。
全然、私は『普通』なんかじゃない。
気持ちが穏やかに思えたのは、自分の感情が麻痺しているからだと言う、その自覚すら無かっただけなのだと、痛みを伴って溢れ出した感情に思い知る。
怒りなのか、悲しみなのか。
騙されていたことなのか、裏切られたことなのか。
何がそんなにもショックだったのか、分からないまま、もうこれ以上、何も聞きたくなくて、――傷つきたくなくて、何も考える間もなく、身体がその声の持ち主に、猛然と抵抗する。
「――!」
それでも強く抵抗する私を、予想していたのか。
それとも、抵抗する力さえ、自分にはろくに残っていなかったのか。
決して頑強な身体の持ち主では無い男に、やすやすと押さえつけられ、微かに身をよじる。
そうすれば、最後に出来る抵抗は、一つしか無くて。
放して!と、大きな声を上げかけた私の耳に聞こえた、小さな舌打ちと、声を奪うように、押さえられた頤。
「……っ……!」
かさつく指と、荒々しく塞がれた唇。
それは口づけ何てものでは決してなく、まるで溺れる人間がすがりつける最後の木片のように、無我夢中で悲壮で。
「殺しなさい。」
男の唇が、ほんの少しの隙間から言葉を紡ぐ。
無理やり握らされた、冷たい金属の感触を確かめる間もなく、ぐいっとむき出しにされた男の首筋に押し当てられる。
「もうこれ以上、一言すら、私の言葉を聞きたく無いのなら……今すぐ私を殺しなさい。」
薄闇にうかびあがる首筋と、頚動脈に押し当てられた、黒銀の剣。
「っ!」
その冷たさと、手に感じた、ぷつりと嫌な感触。
剣を通して感じる、重い肉を切る感触に血の気が引き、指から剣を引き剥がそうとしても、男の手が許さない。
あとは一気に引くだけだと言われた手に、ぱたりぱたりと、暖かな物がかかる。
これ以上、追い詰められる所なんてないと思っていた自分の、それでも僅かに残っていた彼への思い。
それをやすやす探し出した男は、今まさに死を賭して、私に選択を迫る。
その一片の迷いも無い、決意と覚悟に、全ての意地が――砕けた。
「……ひどい、よ。」
掠れた声と共に、眦から涙が滑り落ちる。
――出来るはずが無いじゃない。
たとえ彼が私に何をしようとも、全てが嘘だったとしても……どうして私に、出来るのだ。
私が彼に殺されても、私に彼を殺せるはずが無い。
「……っ。」
膝から力が抜けた私の肢体を、腕にかき抱くように抱きとめられる。
それは崩れ落ちる私を支えると言うよりは、縋るようで。
「トウ……コ。」
乱れた髪に差し入れられた手のひらが、強く腰に巻きつく腕が、決して言葉にしない男の、それでも精一杯の思いを伝えるかのように、熱い。
「五日後の、静月の夜。――…貴女とマイコを、元の世界へ……帰します。」
――え?